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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-27-Sunday 坂本勝玉堂2

鉄道の開通によって帯広は大きく変貌する。

鉄道の停車場(駅)が出来る位置によっては、その後の市街地発展に与える影響が大きいのは今日でも同じといえる。明治30年代の帯広も停車場(駅)がどこに出来るかという噂話が起きる度に、その近辺の土地の買占めが起きた。停車場は最終的には噂話にも上がらなかった西2条南12丁目辺りに本決定するのだが、この場所の近くには退官したばかりの諏訪鹿三前河西支庁長が広大な面積を占めて農場を経営していたから、当時は様々な風評が飛び交ったと言われている。

西2条の発展にはもう一つの阻害要因、裁判所用地の問題があった。1898(明治31)年に帯広が道庁から受領した裁判所用地は最初17161坪もあった。西2条西側・西3条・西4条東側の8・9丁目全部(現藤丸8個分に相当)である。1918(大正7)年にこの用地が縮小され、翌8年に開放、競売された。この裁判所用地が西2条通に面していた為に、10〜駅前(12丁目)と7丁目より北側の南北に分断されていた西2条が用地の縮小によって間もなく商店が立ち並び始めやがて商店街が形成されていくのである。

因みにこの時、藤丸は8丁目角地の17,19番地と9丁目角地の17,19番地の計4戸分を同時に落札している。

祖父は前河西支庁長、諏訪鹿三の住宅があった西2条南9丁目東側の16.18.20番地の三戸分を1924(大正13)年頃に購入する。だが、何故だか18.20番地を渡道の際に世話になった「佐藤喜与丸」の名義にしたのである。理由は不明だが祖父は表面上に自分の名前が出ることを極端に嫌っていたようなのである。16番地で「坂本勝玉堂」、18番地は借店舗として(現:眼鏡の文明堂)、そして20番地に「カネヨ佐藤喜与丸商店」が利別から移転してくる。後年、カネヨ佐藤の商売が上手く行かずに20番地は他人の手に渡ってしまうが、18番地の名義の変更はその直前に終了していたので危うく難を逃れたのだと父が言っていた。

祖父、勝は1907(明治40)年10月16日に同郷(山梨県北巨摩郡安都玉村)から呼び寄せた「土屋志のを」と結婚して4男1女をもうけるのであるが、次男(恒久1912年生)以外は早世してしまう。妻の志のをも1925(大正14)年に38歳で亡くなってしまった。

1925(大正14)年に借家住まいに決別して、西2条南9丁目16番地に石造り二階建てのモダンな店舗を建てて移転、十勝石細工、印鑑、カレンダー、団扇、タオルなどを手掛けた。印鑑部門では内弟子を育て、高田東洋堂・斉藤有巧堂・石原印房などが坂本勝玉堂から巣立っていった。高田直明(東洋堂)は勝の妻志のをの妹一江を妻としていたので義弟という関係であったが、志のをの死を期に独立をした。高田の独立で職人不在となり印鑑業を止めることになる。祖父は電気屋、洋装屋など様々な職業を手掛けたようであるが、どれも強力なライバルが出現すると、あっさりと撤退している。商売の見極めが早かったのか?それとも気まぐれだったのかは判らない。

1927(昭和2)年、勝は大正7年に夫の遠藤好治を亡くしていた遠藤ハナ(有田三蔵、むめ長女)と再婚し、五男圭司(貞夫)をもうける。これが私の父である。

祖母の実家である有田家を継いだハナの兄、有田重太郎は有田紙店(大正10年10月大通南11丁目11番地で開業)を起こした社長で、帯広商工会議所の副会頭も務めた人物である。

藤丸が1930年(昭和5)年11月に西2条南8丁目17.19番地の二戸分をつかったデパートを開業すると西2条はますます栄えていく。

祖父は1933(昭和8)年に札幌市南2条西3丁目18番地の角地の土地を購入して札幌支店を作る。この支店を任されたのが次男の恒久である。この場所では現在も従兄弟が商売を続けているが、札幌の駅前通りの一等地である。帯広で一番固定資産税が高い土地と札幌の一等地を得た祖父の土地を見る目は素晴らしいかったなぁと感じる所以である。

1933(昭和8)年4月1日、帯広町が市制施行で帯広市になったことを記念して、帯広商工会は「第一回帯広市卸見本市」を開催した。視察客が大勢来る事を予想して、帯広を代表する土産品を選定したが70余点の応募の中から選ばれた17点のうちの最高賞である「名誉賞」を坂本勝玉堂謹製の十勝石細工が受賞した。この入賞者によって翌9年1月4日に「帯広土産品協会」が結成されたのである。