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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-02-02-Saturday 機関誌ゆき掲載文2

その答えが「屋台」であった。

十勝に屋台は現存しないし、小資本で開業出来るから、失敗してもリスクは小さい・・・

地元の人がまだ知らない新鮮な食材を、目の前で調理して、コミュニケーションを共有出来る場所を提供出来たら流行るかも知れないと考えたのである。

しかし、屋台には二つの大きな壁が存在した。法律の壁と意識の壁であった。

一つ目の法律の壁とは、福岡県の博多に代表される日本の既存の屋台は、道路法・道路交通法・公園法・食品衛生法などの法律によってがんじがらめに縛られている。現営業者一代限りの既得権しか認められずに後継者を作れない、いわば絶滅危惧種の商売なのだ。新陳代謝がないから衰退する一方なのである。メニューにも大きな制約があって「客の口に入る直前に熱処理した熱いものしか提供してはいけない」のである。営業時間は夕方から夜間までで毎日移動、組立、収納をしなければならない。既得権を守る為とはいいながら結構大変な作業の連続をしているのである。

営業場所に関わる三つの法律は民有地を使用することで意外とあっさり解決できたが、食品衛生法の壁は一際高かった。民有地であっても屋台のような簡易の施設なら、同じ場所では一週間以上の営業は認めないというのである。何度も保健所を訪ね、智恵を絞り抜いてようやく厨房を固定化することで飲食店としての営業許可を取得する方法を思い着いた。飲食店なら誰でも開業出来るし、メニューの制約も無い、屋台につきものの毎日のしんどい作業も大幅に軽減されたのである。

二つ目の意識の壁とは、十勝のような寒冷地で屋台を営業しても寒くて客など来る訳がない。屋台は南の地域のものだ。という誤った思い込みであった。

1999年当初にこの「北の屋台」の事業計画を相談した人の1000人の内999人は止めた方が良いという反応で、「何処かに似たような成功事例はあるのか?無いのならアブナイから止めておけ!」というのである。

この先入観(思い込み)という意識の壁を乗り越えるのにはかなり苦労した。発想の転換を図るにはただ机の前に坐っていたのでは難しい。現場に出かけて行くことが大切だ。私達も自費で海外に何度も視察に行ったし、補助金を受けてからも国内の視察(補助金の制約で海外視察は不可)を精力的に行った。福岡の屋台の組合長さんにインタビューした時に「福岡では屋台は冬の風物詩であり営業のピークは冬場で、屋台の敵は雨と暑さだ」、「狭いから雨が降ると客の背中が濡れてしまう。暑い日でも屋台にクーラーはつけられないし、熱いメニューしか出せないから真夏の蒸し暑い夜には営業しない」と言うのである。温かければ良いというのではなかったのだ。早速、福岡市と帯広市の過去十年間の気象データを比較してみると、梅雨が無く、夏でも涼しい十勝はデータ上からも屋台の適地だと判明したのだが、今度は夏は良くても冬の営業は無理だと言う声が多勢を占めたのであった。すると、真冬の二月に東北の仙台で屋台を営業しているという情報を得たのですぐに視察に行ったら、戸板で風を防いで繁盛していた。暑さへの対処は難しいが、寒さは服を着たり、壁で囲めば良いのである。調理に火を使っているのだからその熱を利用すれば良いのだ。

しかし、一旦思い込んだ人達の意識はそう簡単には変えられない。そこで一年間の「戦略的広報活動」を展開することにした。三日に一度は新聞記事になるようにイベント事業を組み立て、実際にこの頻度で新聞に載ったのだ。ようやく帯広が屋台の適地であることを一般の帯広市民に印象付けることができたのである。

二番煎じが通用する時代はもう去った。人口が右肩上がりに増え続けている時代なら二番煎じでもまだ柳の下にドジョウは沢山いたが、人口が減る時代にはリスクをとって一番初めにやったところだけが最大の恩恵を受ける時代に変わったのである。二番煎じというかつての安全策はもはや安全策などではなく、極めて危険な策になったのである。

「北の屋台」を事業化する上で特に腐心したことは、「共通認識」の共有である。前述したが世の多くの失敗事例は「目的」と「戦略」を持たずにスタートさせてしまう傾向にあることが判ったからだ。焦る気持ちだけが先走り、明確な目的を持たないままに始めた事業は空中分解し易いものだ。参加している人が何の為にこの事業をやっているのかというコンセプトが明確でないと右往左往を繰り返すことになる。特にイベントの為のイベント(人を集めるだけのイベント)を行っていると、一生懸命やっている人間ほど先に疲れ果ててしまい、やがて組織が崩れていくという様を何度も見てきた。

イベントは「目的」を達成させる為の「手段」にしか過ぎないのに、年月が経過すると本来の目的を忘れて、やがてイベントをやることだけが目的化してしまうのである。「目的」と「手段」を取り違えてはいけないのだ。

「効率化」は無駄を省いて働く人間を幸福にすることが目的であった筈である。それがいつしか効率化することそのものが目的化されてしまい、今度は人間を省く方向に向かっている。行き過ぎた効率化は人間をかえって不幸にしてしまうのではないだろうか?

だから「北の屋台」はわざと不便に造ったのだ。「便利さが殺すコミュニケーション、不便さが生み出すコミュニケーション」なのである。

店舗の組立・収納の不便さがあるから、本来はライバルである店主同士にも助け合いの気持ちが生じる。屋台は店舗が三坪しかない狭さゆえに、客がお互いに譲り合わなければ快適な空間を維持出来ないから、会話が生まれ一体感が生まれるのである。考えもなしにただ便利にだけ造ってしまえば郊外型の大型店舗と変わらなくなってしまう。

何百年という歴史のある屋台には、先人が経験上積み上げてきた貴重なノウハウが沢山詰め込まれている。先人の智恵(大きさ・形・小道具などの持つ意味)を現代に活かさなければならないのに、その意味を理解しようとしないまま勝手な改悪をしてしまう。

何の為に、どんなモノを造り、どうやって運営していくかが重要なのである。完璧なシステムを作ることは可能かもしれないが、そのシステムを運用するのはしょせん人間なのである。システムは動かす人間の「志」に大きく左右されるのだ。

帯広の「北の屋台」の成功を見て、全国各地に北の屋台をモデルにした屋台村がいくつか誕生したが、あまり他所が上手く行っているという話しは聞かない。

北の屋台の表面上に現れていることだけを見て全体を判ったつもりになって、すぐに始めてしまうからではないだろうか。

私が趣味にしているマジックの世界でも、タネを知っただけではそのマジックは演じられないというのと同じである。しっかりと現象を理解し、どう表現したら良いのか、鏡を見ながら何度も何度も練習して、自信が持ててから始めて人前で演技ができるのである。

夏の昼間には大勢の観光客が来る有名な観光地でも、夜にその街に泊まってもらえないという悩みが聞こえてくる。宿泊してもらうことでその地域で消費するお金が格段に増えるのである。屋台は夜の営業をするものだから、屋台で飲食をしてから他所の観光地に移動するような時間は取れない。つまりは近隣のホテルに貢献することになる。

狭くて十人で満席になる屋台に入りきれない客は近くの飲食店に入ることになる。元々、屋台というのは屋台だけで完結する施設ではないから周辺全部が潤うことになるのである。

北の屋台事業が帯広という地域に貢献したのだとしたら、それは皆の「やる気」を醸成したということになるだろう。

後ろ盾のない若い連中が周りから反対されても信念を持ってやり抜いたら、全国的に評価される事業にまでなった。あいつ等に出来て、俺達に出来ないわけはないとばかりに、タクシー会社が組合を作ってポイント事業を始めたり、バス会社が実験的なバスを走らせたりと次々と新たな活動が関連して起きてきた。最初は反対した周りの飲食店主たちも今では屋台の応援団になっている。

今回は紙面の関係で「北の屋台」事業に関しての具体的な記述は大幅に省いた。

拙著「北の屋台繁盛記(メタブレーン社刊)」に立ち上げから屋台の歴史まで、詳しく掲載しているので詳細を知りたい方は是非そちらを参照されたい。

前日と今日の文章は2007年10月20日(社)雪センター発行の機関誌ゆき69号に掲載された私の論文「屋台で観光・地域づくり」をそのまま掲載した。