当時は娯楽が少なかったこともあって連日超満員でかなり儲かってもいたらしい。帯広出身の歌人中城ふみ子さんを描いた渡辺淳一さんの小説「冬の花火」の中にも坂本会館が登場する。当時の帯広の社交場であったようだ。
「私たち夫婦は、おたくのダンスホールで出会ったのが縁で結婚したのよ」という話をいまだに年配のご夫婦から聞かされるほどなのだ。
当時は職住一致で自宅とホールは薄い壁ひとつしか隔てておらず生まれた時(昭和33年)からダンス音楽や流行の歌を子守唄代わりに聴きながら眠っていたのだが、私が踊れるダンスはチークダンスだけだ。親の趣味を継承するのには抵抗があったようだ。
そのダンスホールから火が出て我が家が全焼してしまったのが昭和42年、小学四年の時だった。
街はずれの住宅地にとりあえずの住む場所を確保したのだが、最初の晩にそこが静か過ぎて眠れないのだ。早速翌日にはラジオを買ってもらってつけっぱなしにして寝たものだった。慣れというのは恐ろしいものだ。今は静かでないと眠れない。
今の帯広には「社交場」らしきものが無い。中心街には皆が気軽に集える場所が必要だと思うのである。
そこで素敵な出会いがあればなおの事良いと思う。