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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-04-05-Saturday 続 花の帯広小学校

昨日自宅に「続 花の帯広小学校」という文集が届いた。

帯広小学校の創立百十周年記念事業として編集したものである。私も寄稿依頼を受けて拙文を掲載していただいたので以下に紹介する。

「心のふるさと帯広小学校時代の思い出」第72回 昭和45年卒業

小学生の時には厳然とした「格差」が存在する。それは、「早生まれ」と「遅生まれ」の格差である。体力の面でも学力の面でもその差はかなり大きかったなぁと記憶している。

一月末(昭和三三年)の生まれであった私は身体の成長が遅く、小学校を卒業するまではクラスで一番背が低かった。縦に並んで列をつくる「前倣え」の時にはいつも最前列で腰に手を乗せる役目ばかりであったので、一度くらいは手を伸ばしてみたいとずっと思っていたのだ。なにせ小六で身長が一三三cmしかなかったのである。だから卒業アルバムで女の子達と並んで写っている写真を見ても私だけ頭一つ分は低かった。四月初旬に生まれた連中からみれば十ヶ月近くも遅く生まれているのだからしょうがないといえばしょうがないか・・・。

悔しい思いもいくつかあったが、得をしたことも多かったように思う。

当時は「お誕生会」というものが各家庭単位でおこなわれていて、仲の良い友達数人を家に招待して祝うことが流行っていた。女の子のお誕生会にお呼ばれする男の子が私一人だけという会がいくつかあったのである。その事を「俺は昔、女の子に人気があったんだゾ!」と妻に自慢下に話したら、「男として見られていなかっただけでしょ?」と軽くあしらわれてしまった。

何の因果か妻とは帯小で一緒だったのだが、当時の妻が私に対して持っていた印象は「いつも私の周りをチョロチョロしていた」だけだというのである。そうか、これが未だに妻に頭が上がらないトラウマ(遠因)であったのか・・・。

そんな妻と昭和六〇年の五月一六日に結婚することになるのだが、この五月一六日という日付は恐怖の日なのである。

あれは昭和四三年の五月一六日、午前九時四八分頃のことであった。帯広小学校は奇数の学年は南側の校舎、偶数の学年は北側校舎で学んでいた。当時、私は五年生であったから南側校舎で授業を受けていたのであるが、ゴォーという地響きがしたと思ったら直後に強烈な地震が起きたのである。世に言う「昭和四八年十勝沖地震」の発生であった。担任の吉沢先生が生徒を机の下に潜り込ませ、揺れが収まったところで廊下に整列させ、薄暗い階段を下りて、普段は生徒が使用しない中央の出入り口から速やかにグランドに避難させたのである。先生が落ち着いておられたから生徒もたいした動揺もせずに誰も怪我する事もなく無事に避難することができた。全校生徒がグランドに集合すると、校舎のレンガの煙突二本が崩れていた。震度は五程度だったと思うが、初めて経験する大きな地震であった。自宅に戻ってからも何度も余震が起きて眠れぬ一夜を過ごしたものだった。

恐怖といえば、その前年の昭和四二年一一月二七日の深夜に西二条南九丁目の我が家から火災が発生した。真夜中に「火事だ〜!」の声で起こされた。寝ぼけ眼で着替える間も無く着の身着のままパジャマの上にアノラックを羽織ったのみで、ランドセルだけ背負って家の外に出た。五年生の姉と四年生の私、一年生の妹と幼稚園児の弟と祖母の五人で近所の親戚の家に避難した。大人の人たちの話では「すぐに消せるからまずは身体一つで逃げなさい」ということだったが結局跡形も無く全焼してしまった。アルバムすらも持ち出さなかったので、貴重な写真が失われてしまった。物はまた買えば良いが、写真は買えない。今思うと残念なことである。

この年に同じ町内で立て続けに四件の大きな火災があり、お祓いまでやったが、この火災を機に街中が大きく変貌した。それまでの職住一致の生活から店舗と住宅を別々に建てて「通い」の形態になったのである。我が家の生活もこの火事を機に大きく変わったのだった。

現在の帯広市内は当時から較べると随分と寂しくなってしまった。近年はまた昔に戻って職住接近が良いとも言われているようであるから、帯小の生徒数も増えるかもしれないなぁ。

今思えば、小学生時代(昭和三九〜四五年)は懐かしくも楽しい日々の連続であった。

現代の子供たちとはまた違う活力に溢れた時代であったように思う。