父が亡くなったのは平成4年(1992)の5月2日だったから、早いものでもう17年目になる。享年は満年齢で64歳だったから日本人の平均寿命からみても少々早過ぎる死であった。今回の法要に合わせて久し振りに4人の兄弟姉妹全員が集合した。
当時、父は肝臓癌で永らく入院していたが身体の調子が良くなったので久し振りに自宅に戻って来ていた。ゴールデンウィークだから何処か近郊に出掛けようかと言っていた矢先に、急に容態が悪化して再入院したのだが、結局それっきりであった。東京に嫁いでいた姉を臨終に立ち合わせたいと連絡したのだがGWで飛行機の切符がなかなか手配出来ずに苦労したものだ。葬式の手配などもGWの真っ只中で、町内の皆さん方も不在だったので、とても大変な思いをした記憶がある。何でこんな時にと思ったものだがこればかりは仕方がない。しかし、その後の法要には逆に家族が集まりやすい日なのでかえって良かったのかもしれない。父は自分が死んだ後にも家族が集まりやすい日程を選んで死んで行ったのかしらん。
父が亡くなった時に私は34歳であった。私は大学を卒業してすぐに家業に入ったから12年間は父と一緒に仕事をしたことになる。父は祖父が早死(67歳)にしているし、急に心臓麻痺で亡くなったので相続では大変な苦労をしたから、私には同じ苦労をさせたくないと毎日の様に色々な事を話して聞かせてくれたから、その点ではとても助かった。きっと跡継ぎとしてとても頼りない存在であったのだろうと思う。
平成4年という年は、バブルが崩壊した直後だったので、土地の固定資産税評価額は過去最高値であったし、相続税率も近年では一番高かったのでお金の面ではとても苦労した。それに34歳という若さで急に社長業をやるのも正直大変であった。もう少し長生きしてくれて徐々に交代していければ、良かったのになぁと感じたものだ。
だが、もし父が存命だったら「十勝場所と環境ラボラトリー」や「北の屋台」などの事業が果たして出来ていただろうかと考えることもある。
ここでもやはり「人間万事塞翁が馬」なのである。人生とはそういうものなのだろう。