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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-07-11-Friday まちづくり(3)

2000年2月18日(土)十勝毎日新聞掲載『都市と「こころのよりどころ」〜都市は「ハレ」を感じる空間 車社会の典型となった十勝〜』

都市は都(みやこ)と市(いち)の二つが合わさってできた言葉です。「みやこ」は宗教的権威と政治的権力の中心地としての側面を持ち、「いち」は生産物や情報の交換の場、文化や人の交流の場、演劇や生活や消費の場としての側面を持っています。

両方が揃っての都市であり、特に「市場」の機能は農村と都市を区別するうえで重要なファクターを果たしています。政治的な機能だけを持たせた人工的で無機質な都市施設だけの街では魅力ある都市は生まれません。モノとヒトと情報が集まり、活気に満ちた空間であり、商業・流通機能に加えて、演劇性や非日常性や祝祭性を持った気持ちの昂ぶり、いわゆる「ハレ」を感じる空間でなければならないのです。

洋の東西を問わず、昔から栄えている有名都市には、宗教的・政治的権威物に人が集まったという場所が必ず存在します。例えば欧米では教会や市庁舎前の広場などがあり、日本では神社仏閣の境内などがあります。人々は毎日のようにそこに集まり、語らい、自己表現をしました。(私は人々が何らかの「こころのよりどころ」を求めて集まったのではないかと推測しています。)めざとい商人達は集まってくる人達のサイフを目当てにそこに出店し、そして市場が形成され徐々に都市へと発展していったのです。

残念な事に歴史の浅い帯広にはそういう場所は存在しないといっても差し支えないでしょう。しかも、アメリカのワシントンDCをモデルに造られた街だとすると、万が一ですがその創設理念には「いち」の概念が欠落していた可能性すら考えられます。しかし、都市には人々が「こころのよりどころ」とするそういう場所が必要不可欠なのだと思います。

本来は人のためのものであった都市に、我がもの顔で走り回る自動車が出現したのは一体いつのことなのでしょうか?

それは1908年にアメリカのフォードがT型フォードを大量生産方式で世に送り出したときに始まったといえます。自動車はまさに20世紀を象徴する発明といえるでしょう。日本でも60年代には庶民に手の届く価格になり、急速に普及しました。ちなみに当時の学者達は日本では自動車は普及しないだろうという予測を立てていたという話しを聞きました。その学者達は皆、東京や大阪などの大都会に住んでおり、土地が狭くて駐車場も無く、公共交通が発達している日本では自動車はタクシーぐらいがあれば充分であると分析したといいます。地方に暮らした経験の無い学者の中央中心の逸話として残っているようですが、結果はご存じのように一家に一台の時代となっております。十勝では一家に二台以上の所有率です。見渡す限りのカシワ林を開拓し、白地図上に設計者が自由に描ける道路網、この十勝の広い大地はまさに車社会用に用意された土地といえるのかもしれません。