1990年に栃木県足利市で起きた4歳の女児が誘拐・殺害された足利事件で無期懲役刑が確定した菅家利和受刑者が約17年振りに釈放された。
当時のまだ不十分であったDNA鑑定の結果を重視した不当な判決であったという。警察や検察のムチャクチャな捜査方法や裁判の問題点などがこれから明らかにされていくだろうと思う。早く改善して欲しいものだ。
本来、裁判の大原則は「絶対に冤罪を出さない」ということだと以前にも書いた。99人の真犯人を取り逃がすよりも、1人の冤罪者を生まないことが重要なのだ。しかし、これだけの冤罪がいまだにあることを考えると、どうも実際は違うようである。
裁判に掛けられたら97%が有罪になるというのは明らかにオカシイ。裁判は被告人に対しては「推定無罪」の姿勢で臨まなければならない。
冤罪の大問題は、日本の狭い国土と狭量な国民性にある。家族若しくは親族から犯罪者や被疑者を出したら、それこそ被疑者以外の関係者全員にも被害が及んでしまうということだ。
ふだんは個人主義を唱えているくせに、こんな時には全体主義になるご都合主義だ。
今回の冤罪事件も(まだ再審が決まっただけで、無罪が確定したわけではないが)菅家さんの約17年間の人生は取り返しが利かないことは勿論だが、家族、親族の人達も大変な苦労をされたことだろう。就職が出来なかったり、嫌がらせを受けたり、引越しを余儀なくされたりなどのこともあったことだろうと思う。金銭で解決出来る問題ではない。
だからこそ、冤罪は決して起こしてはいけないのだ。
しかも、逆の観点からみれば、真犯人に取っては最高の逃走援助を警察や検察がしてくれたことになる。
菅家さんが犯人として刑務所に入っていれば、この間警察は犯人探しなどはやっていないだろうから楽々逃亡できたことになる。結局、この間に時効の15年が過ぎてしまっているから、例え真犯人が現れても罪には問えないのだ。警察は二重の意味でマズイ対応をしたことになる。
それにしても、すでに始まった裁判員制度で冤罪事件が減るのだろうか?もしも、冤罪事件の裁判員としてその裁判に関わってしまったとしたら、その裁判員になった人は一生悔いることになるだろう。私は裁判員には絶対になりたくない。(5日11:00記)