(先日のブログで「母の喜寿のお祝い」と書いたが、傘寿の間違いであった。)一緒に暮らしている母親の年も判らないとは・・・。
母の傘寿のお祝いに娘を連れて久し振りに帰郷したので、4人の兄弟姉妹が久し振りに揃ったので、皆の家族が集まってホテルで会食をした。
昔は全然似ていないと思っていた姉と妹が並んで坐るとソックリになっている。DNAというのは恐ろしいものである。
昔話に花が咲いたが、映画館の話になってかみ合わないところが出てきた。私は映画大好き人間だった父に良く連れられて映画を見たものだが、他の兄弟はそうでもなかったようである。映画館の細かい構造を他の兄弟があまり覚えていなかったのだ。
私は映画館の横には「滑り台」があったと言うのに、他の兄弟たちは知らないと言うのである。滑り台というのは比喩で、実は火災の際の脱出口なのだが、昔の二階席のある大きな映画館は二階からの脱出口は木製の急な滑り台状になっていたのである。だが、そこから中に入れない様に急な傾斜になっていたし、また良く滑るのである。しかも地上部分は簡単には昇れない様に少し高くなっているのだ。上から飛び降りることは容易でも、下から昇るのは大人でも困難にしている訳だ。
とにかく幼少の頃は悪戯っ子だったから、その昇りにくい脱出口で遊ぶのが面白かったのだ。学校帰りに映画館の横でその滑り台に昇って滑って遊んでは映画館の人に怒られるということを繰り返していたから良く覚えているのである。
また、映画好きな父は良く一人で映画見に行っていた。そんな時にお客さんが訪ねてくると、映画館を回って父を探して連れて来るのが私の役目だったのだ。
映画の上映中に館内放送なんてかけられないし、映画館の人が、いちいち父を探し出してくれることもないから、私が中に入って連れ出すしかないのである。
当時の映画館は立ち見客で溢れんばかりの混雑であったし、しかも皆、タバコを吸いながら見るから、映画館の中はとても煙たかったのである。
入り口で切符もぎりの小母さんに、父が入館しているかを聞くと大抵の人は判っていて、「居るよ〜、中に入って連れておいで」と言って中に入れてくれるのである。満員の中を一番前まで行って観客の顔を見ながら父を探し出すのである。
あの当時(昭和40年頃)は、我が家の近所には2階席のある大きな映画館が7館ほどもあって、どの映画館も流行っていたのだ。
私の映画好きは父の影響を受けているのだろうと思う。
小学校4年生の時に父に東京に連れて行ってもらったことがあったが、その時も有楽町の日劇や新宿の寄席などに連れて行かれたのである。
家族というのは、もちろんDNAというのもあるだろうが、親の嗜好が子供に影響することもある。
父は社交ダンス好きが高じて、ダンス教師の免状を取って、「ダンスホール坂本会館」を造ってしまったが、趣味と実益を一致させた稀有な例だろう。渡辺淳一の小説「冬の花火」の中に登場するのが自慢であった。だが、4人の兄弟姉妹の誰も社交ダンスはやる者がいなくて、とても残念がっていたが・・・。
私も、最近ようやくマジック教室で多少の収入を得られるようになってきたから、少しは趣味が実益を兼ねるようになってきたかな?と思っているが、残念ながら私のマジックも、子供たちは誰も継いでくれていない。この年になって父の無念さが少しは理解できるようになってきた。