«前の日記(■2010-03-22-Monday) 最新 次の日記(■2010-03-24-Wednesday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-03-23-Tuesday 温故知新 広小路・考

十勝毎日新聞2010年3月22日(月)「かちまい論壇」掲載記事

「北の屋台」を始める時に屋台の歴史を研究したが、その中の「広小路」の箇所を抜粋した。歴史を学べば面白いアイデアが出てくるかもしれない。

1920年(大正9年)に旧裁判所用地(西3条南9丁目・旧ヨーカドー跡)の解放にともない、大通りから西2条を結ぶ8丁目線(夜店通)に露店が集まり、露天商組合が組織され、道路中央に背中合わせのテント張り仮設店舗を建て、その中央の露店を両側から挟むように向かい合わせに香具師(やし)が店を出した。

30年(昭和5年)12月、西2条南8丁目に「藤丸百貨店」が開業、同年5月の8丁目線(夜店通)の営業内容は洋品7、金物9、果実13、玩具9、氷2、瀬戸物3、焼物8、饅頭1、生魚3、花4、青物3、餅2、印刷1、菓子4、履物5、小間物11、植木3、するめ1、眼鏡1、本2、靴修繕1の合計93店、翌年6月の調査では106戸に増えた。

45年(昭和20年)、終戦間近の7月14日、帯広駅がアメリカ軍に空襲を受けた。これにより7月20日から月末にかけて防空法に基づき、重要公共建築物を守り、家屋密集地帯に住民の避難所を作る目的で、第1次強制建物疎開が実施され、広小路の防火上好ましくない施設と見られていた露店が撤去され中央広場ができた。空襲を受けた直後でもあり異議の申し立ては少なく疎開作業は順調に進んだが、半月後に終戦を迎えるとこの措置を恨む声が起った。

8月15日に終戦を迎えたが、直前につくられた疎開跡地は最適の露天市場となり、わずか半月の間に露店が立ち並び始め、46年(昭和21年)には「新興マーケット」ができた。初期は広い広小路の両側に戸板やムシロを敷き、旧軍放出品などを売っていたが、後に道路中央で背中合わせとなって屋根を付けて固定し、50年(昭和25年)には137戸が営業。53年(昭和28年)7月に118軒が半強制撤去されて新興マーケットは終焉を迎えた。

広小路は露店街であったのだ。現在の広小路の道幅は20mで路面店の営業軒数は32店舗。一説によると商店街の最適道幅は6mと言われている。自然発生的に背中合わせで出来た露店は道幅を狭くする効果を持っていたことが分かる。

現在の全蓋式アーケードにする際に自動車にも人間にも両方に都合の良い道路にしようとしたが、逆に両者にとって使いにくい道になり現在に至る。

広過ぎる道は殺風景だ。狭く感じさせて賑わい感を創出する方法を歴史が教えているのではないだろうか?