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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-04-04-Sunday 日本における肉食文化②

古事記や日本書紀に載っている

「大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲り」の物語は、戦に負けた先住民の長である大国主命の怨霊を治める為に巨大な「出雲大社」を建てたというのが井沢史観で、私はこれは正しいと思っている。朝鮮半島から現在の島根県辺りに攻め入って来たのだろう。松本清張の小説「砂の器」で島根県の一部に東北地方のようなズーズー弁があることを指摘していたが、島根辺りから追われた民族が東北に逃げて蝦夷になったというのは説得力のある説だと思っている(話が少々脱線したので元に戻す)。

聖徳太子の時代に入って来た仏教の「殺生戒」が動物を殺して食べることを躊躇わせる元になったと言われてもいる。が、しかし、この当時の仏教は伝来したばかりで、上流階級のしかもまだごく一部の人達のものであって、庶民にはまだまったく関係がないから日本中が仏教を理由に殺生をしなかったということはありえないのである。

天武天皇がいわゆる「肉食禁止令」を出すのが675年である。(井沢史観によると天武は天智天皇の本当の弟ではないと言っているが・・・)「牛・馬・猿・犬・鶏」を食べることを禁止したのである。

ここで「猿や犬を食べるな!」とあえて禁止していると言うことは、当時は猿や犬を食べていたということの裏返しであろう。この当時の日本人は普通に猿や犬を食べていたということがこの禁止令から判るわけである。でも、そこら辺にたくさんいたであろう「猪」と「鹿」は禁止していない(書いていない)から、これは食べても良かったということでもある。しかし、この禁止令も農作業の忙しい春から秋にかけての時期だけであるから、肉食はダメというよりも、牛と馬を殺して食べてしまっては農作業に支障をきたすという理由ではないだろうかと推測する。猿・犬・鶏に関しては何か別の理由があったのだろうが判らない。猪や鹿は田畑を荒らす害獣だから、むしろ積極的に捕らえていたのではなかろうか。

通説では、この後の奈良時代になって聖武天皇が奈良の大仏を建てて752年に大仏開眼供養の為に一年間の殺生禁止・肉食禁止をさせてから、これが契機となって、明治の文明開化まで四足動物を食べなくなったと言われているのである。しかし、これは前述したように誤っていると思うのだ。

源氏と平氏の戦いで平氏が負けたのは、平家は海の民で源氏は山の民ということもあると思うのである。魚ばっかり食べていた平家は、肉を食べていたであろう源氏よりも蛋白源の摂取量が少なくパワーの点で劣っていたのではないかと思うのである。

源義経は馬で攻めている。源氏は馬を自在に操っていた訳だ。戦で死んだ馬は、貴重な食料でもある、それをそのまま食べずに放置するはずがないと思うのだ。肉は干し肉にすれば保存も利くし携帯に便利だから戦争にはもってこいの食料であろう。おそらく源氏方は肉を食べていただろう。(つづく)