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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-04-05-Monday 日本における肉食文化③

鎌倉時代から近代まで

またまた余談だが、鎌倉時代前期の新古今和歌集の編纂者であり、百人一首の選者でもある歌人藤原定家(1162-1241)の日記「名月記」には「鶴」「鵠(白鳥のこと)」「山梁(雉のこと)「狸」などを食べていたと書いている。現代人にしてみれば鶴や白鳥を食べようなどとは思わないだろうが、私は以前にこのブログで十勝川に飛来してくる白鳥を見て「食べたら美味しそうだなぁ〜」という感想を書いたことがあるが・・・。時代や国によって食文化は大きな違いがあることは認識しなければいけないだろう。

私は、田舎に暮らす庶民は、昔からずっと肉を食べていたと考えている。

カンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞した、今村昌平監督の映画「楢山節考」(1983年:緒形拳・坂本スミ子主演)は口減らしの為の「姥捨て山」を題材にした映画である。また江戸時代から、日本ではかなりの数の飢饉が起きており、その度に、これまた口減らしの為に若い娘が売られていた。これは、テレビドラマの「おしん」などでも表現されているが、つい最近まで行われていたことでもある。

飢饉が起きた時には、人肉まで食らったという記録があるのに、そこら辺りの山にいる動物を獲って食べないわけがないでないか。明日をも知れぬ乏しい食料事情だというのに、貴重な蛋白源を食べないというのは、あくまでも「建前」にすぎないと思うのだ。

田畑を耕す農耕に必要な牛や馬を殺して食べてしまっては、肝心な農作業が出来なくなるから、飢饉の状態でも牛や馬を積極的に殺してまでは食べなかったろうが、何らかの事情で死んでしまった牛や馬を食べずにそのまま葬ることなどありえないではないか。例え禁止されていたって、自分の命の方が大切だ。法律を守って餓死するのは終戦直後に闇米は口にしないと言って餓死した裁判官が居たくらいの特殊なことだろう。

だからこそ、日本人は獣肉を食べることの罪悪感を消し去る為に、「言霊」で動物を植物に言い換えをしていたのだろうと推測する。

そうでなければ、「すき焼き」の語源であると言われている「鋤焼」は江戸時代から農具の鋤の金属部分に肉を乗せて焼いたことから「すき焼き」になったという説が成り立たなくなる。

蛇足だが、牛肉に関しては隠語というか符丁というか植物への言い換えが無かったところをみると、昔から牛肉を普段から食べていたのではなかろうかと思うのである。

文献上は牛肉を食べるのは、明治の文明開化から許されたということになってはいるが、もともと肉を食べていなければ、すんなり肉食に移行できるわけがない。食文化というものは一朝一夕にガラッと変わることなどはありえないからだ。

私が考える日本における肉食文化というのは、古代からズ〜ッと今日まで存在し続けてきたのだと思うのである。

だから、馬を食べないというのは地域によって「馬耕」だったのか「牛耕」だったのかの違いが大きく。農業に馬を使っていた地域には、馬肉を食べる文化があり、牛を使っていた地域には馬を食べる文化が育たなかったのだと考えている。この考え方の方がスッキリしていると自負しているのだが・・・。

北海道では開拓の時に馬の世話になったから、馬は人間の友達である。だから食べないのだというのは、欧米の人間が鯨肉に対して言っているのと同じ様な後付の屁理屈であると考えている。

「イオマンテ」の項でも書いたが、皮から骨まで全部無駄なく使ってあげることこそ供養にもなる。それが他の「生命を頂く」という人間の業のせめてもの慰めになるのだと考えている。(終わり)