次には、母が十勝川温泉での宴会が待っているのだ。
この宴会というのは、平成4(1992)年に64歳で亡くなった父の圭司が中学校教師をしていた頃の生徒たちが、父の代りに母を同窓会に招待するという趣向のものであった。
生前に私が父から聞いた話では、「戦争に行きたくなかったから、北海道大学の臨時教員養成所に入ったのだ。あそこは当時先生が足りなくなったから戦争中にできた所で、先生になれば戦争には行かなくても済むんじゃないかと思って入ったが、在学中に終戦を迎えたので結局戦争には行かずに済んだ。俺は第三期の昭和23年に卒業して、開校したばかりの帯広三中の生物と体育の先生になったんだ。」と云う風に聞いていた。
私も三中の卒業生であるから、手元にある「同窓会名簿」を開いて見ると、確かに第2回卒業生(昭和25年3月卒業)の3年5組の担任として父の名前が載っていた。この時の生徒の生年は昭和9年の4月生まれ〜昭和10年3月末までの方々だから、昭和2(1927)年の生まれである父とは7歳しか年が違わないのである。ましてや昭和6年生まれの母とは3歳しか違わない。
母も、自分の教え子のわけじゃぁないし、会ったこともない人もいるからあまり気乗りしないと言っていたのだが、熱心に口説く元教え子の方にほだされて出席したのである。
父は、学生時代に「社交ダンス」に魅せられて、札幌のダンス教室に通っていたのだ。
父は本来なら、北大臨時教員養成所を卒業したのだから、ず〜っと教師でいならなければならないはずなのに、戦後のドサクサに紛れてたった2年で教師を退職して、ダンス教師の資格を取得し、祖父の店舗の2階を改造して「坂本ダンス会館」を開業してしまった。
今考えると、学生時代にマジックに魅せられてプロマジシャンに弟子入りした私と良く似ている。やはりDNAなのだろうか?
あっそうか!だから、大学を卒業する時に、私がプロマジシャンになりたいと言った時に「バカ野郎!」と一喝して止めさせたのは、自分の血を引いているから「こりゃ〜このままこいつを東京に居させたらまずいことになるぞ」と思ったのではなかろうか。
この「坂本ダンス会館」は渡辺淳一の小説「冬の花火」の中にもそのままの名前で登場するが、このダンスホールはとても流行ったらしい。いまだに、老年の方から「私達夫婦はお宅のダンスホールで出会って結婚したんだ」という話をしょっちゅう聞かされるくらいだから。
父の教師時代はかなり破天荒な教師であったらしい。髪の毛はパーマをかけていたし、毎日のように遅刻していたという話を聞いた。父の口癖は「俺は昔はかなりモテタんだぞ!」であったが、教え子の女性に言わせるとどうやら本当にモテタらしい。
今回の同窓会は、皆さん方も76歳になって人数も減ってきたから久し振りに集まり、亡くなった父の代りに母を呼んで昔話に花を咲かせようというもので、母にも泊って欲しいとのことだったが、母も宴会には顔を出すが、泊らずに帰るというので、私と妻が早目に温泉に入って、待っていたのである。
この日の土曜日は朝から忙しかったが面白い一日であった。