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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-04-28-Wednesday ばんえい競馬の振興策

私はギャンブルが嫌いだから、

これまで「ばんえい競馬の振興策」など真剣に考えたことがなかった。ばんえい競馬もしょせんギャンブルだろうぐらいにしか考えていなかったのである。

ギャンブルといえばアメリカのラスベガスが有名だが、ラスベガスは荒んだギャンブルの街というイメージを家族連れを招き入れることで払しょくした。しかし、あの総合エンターテインメントは帯広では望むべくもない。

スーパーミニホースと挽馬を並べて展示するとか、ロデオ、乗馬、馬車、馬橇に客を乗せるとか、馬の蹄鉄投げなどの遊びを取り入れるとかいう方策も枝葉末節にしか過ぎないし、そもそも、ばんえい競馬場をギャンブルの場と考えるならば、家族連れを招き入れる戦略というのは如何なものだろうか?

万人に良いという場所は万人にとって中途半端な存在でしかないのだと考える。

ばんえい競馬だけに限らず、競馬は中央競馬以外は全国的にも苦戦が続いている。明日(28日)から始まる北海道の道営ホッカイドウ競馬でも札幌競馬場での開催は休止され、門別での単独開催になるそうだ。累積赤字も242億円になっているという。

もし私に地方競馬の振興策を求められても私には考え付かないだろう、競馬は全くの門外漢だからだ。しかし、ばんえい競馬に一筋の光明を見い出すとすれば、他の地方競馬とは性質が異なる点にあると思う。

ばんえい競馬が他の地方競馬と大きく異なる点は、「馬種の違い」があることだ。端的に言えば、「食肉用の馬」か「サラブレッド」かということだ。この相違点に着目するしかばんえい競馬が生き残る道は無いと考えている。

ばんえい競馬が消滅してしまえばひとつの「馬文化」が失われてしまう。文化は一度失われてしまえば、復興させるのは至難の業になる。

ばんえい競馬の「負のスパイラル」とでも言う図式を「風が吹けば桶屋が儲かる」的シミュレーションでおこなえば、

①ばんえい競馬が低迷する。

②食肉用の馬の畜産農家が馬の生産を縮小する。

③ばんえい競馬に出す良質な力強い馬が産出される機会が減る。

④競走馬の質が下がってレースが面白くなくなる。

⑤競馬ファンが離れる。

⑥ばんえい競馬がますます低迷する。→②に戻る

という悪循環に陥ることが容易に予想される。

すでに北見・旭川・岩見沢・帯広の4か所あったばんえい競馬場が帯広だけの4分の1に減ってしまったのだから危機的状況にあるのだ。この負のスパイラル構造から脱出しなければ、ばんえい競馬の繁栄はあり得ないと考える。つまり根本原因はどこにあるのかということを考えて、そこを正すしか道はないということだ。

端的に言えば「馬の肉の消費量を上げる」ということが必要だということだ。先ほどのシミュレーションの逆を書けば、

①馬肉の消費量を上げる努力をする。

②食肉用の馬の畜産農家が良質の馬を生産する。

③ばんえい競馬の馬としても良質な力強い馬が誕生する可能性が高まる。

④良い馬が増えればレースが白熱して面白くなる。

⑤競馬ファンが増える。

⑥ばんえい競馬が栄える。

という好循環にするのだ。

ここでの、最大のネックは、本来ばんえい競馬の馬は食肉用に生産されているのだが、地元ではあまり食べられていないという現実である。

競馬関係者の間では、「馬の世話になっているから馬は食べられない」とか「馬はかわいいから食べられない」という論理がマコトシヤカに伝わっていることだ。これは一体いつ頃、誰が言い始めたことなのだろうか?

私の推測では、アメリカのカウボーイは馬を食べないから、おそらくそこら辺りから移入された考え方ではなかろうかと思う。日高地方のサラブレッドの生産農家が言うのはまだ多少は理解できる。サラブレッドは食べても美味しくないだろうから・・・。

欧米人のクジラを食べないというメンタリティーは、知性の高い動物やかわいい動物は食べないというものである。しかし、ベジタリアンが言うならまだ理解もするが、牛や豚や羊は良くて、馬はダメだという論理は私にはまったく理解不能だ。

ばんえい競馬の馬は、元々が食肉用の馬である。ばんえい競馬の馬を生産している畜産農家は食肉用の馬を生産しているのだ。良い食肉用の馬の内の力強い大きな馬が挽馬になる。もちろん挽馬にすることを夢見て馬を生産している畜産農家も居るだろうが、本来は食肉用の馬なのだ。挽馬になれなかった馬はほとんどが九州の熊本に移送され、かの地で馬肉になる。

よく明治時代以前の日本人は四足の動物の肉を食べなかったという建前になっているが、これは明らかにウソである。江戸時代に度々起った飢饉の際には、人肉まで食べたという記録すらあるのに、その時に牛や馬を食べなかった訳がない。もちろん農耕用の牛馬を積極的に殺して食べてしまっては肝心の農作業が出来なくなるから積極的に殺して食べるようなことは少なかっただろうが・・・。

私は、普段、牛馬のお陰で生活が出来ているのだから、骨折などして働けなくなったら、余すところなく肉や皮を頂くことで、自らの血となり肉となってくれ、そして一緒に頑張ろうというのが、本当の意味での供養になるのだと思うのだが・・・。

日本人は「言霊(ことだま)」に支配されている国民だから、明治以前は建前上は動物肉は食べなかったことにしているが、馬肉を「さくら」、猪肉を「ぼたん」、鹿肉を「もみじ」と言い換えて、符丁として使っていた、これはすでに当時の日本全国中に広まっていたのだから、誰もが知っている常識だったのだろう。逆に言えばそれだけ食べられていたことの証なのである。

動物を植物に言い換えて、「私が食べているのは、植物なのだ」と(自身にも)言い聞かせて食べていたのである。

現在の日本の47都道府県の内、馬肉食の文化がある県は私が調べた範囲では16道県だけである。北海道・青森県・秋田県・山形県・福島県・栃木県・山梨県・長野県・岐阜県・九州全7県である。日本の地図の真ん中がスッポリと抜け落ちているのだ。これも私が調べた範囲では、「馬耕」と「牛耕」による違いからきているようだ。馬で田畑を耕していた地方では馬を食べるが、牛で田畑を耕していた地方の人は馬を食べないようなのである。また、牛や豚や羊は大量生産に向いているが、馬は大量生産には向いていない動物である。だから食肉用の馬の生産が伸びなかったのではないかと理解している。

北海道の場合は、ご先祖様がどこの地域の出身なのかによって違いがでるのである。我が家の場合は、父方の先祖が山梨県出身で、母方の先祖が秋田県出身だ。特に秋田県では「ハレ」の日には馬肉を煮て食べるという風習があり、我が家も「馬肉の生姜味噌煮」は正月料理の定番料理であった。

ばんえい競馬繁栄の根本はこの「食文化の壁」を壊して新しいユーザーを作り出し「馬肉の消費量を上げる」ことにある。つまり、ばんえい競馬の関係者が、馬肉消費の先頭にたって活動しなければならないと考えているのである。しかし、競馬関係者は「馬を食べない」という人が多いのも現実である。だが、これは自分で自分の首を真綿で締めているのと同じ行為ではなかろうか?

ばんえい競馬場内のレストランで馬肉料理(ハンバーガーや肉まんなどのファストフードからステーキまでの本格的な)を提供し、馬肉のソーセージやジャーキーなどをお土産として販売する。このことに対する「競馬場で馬肉を食べるなんて」という競馬関係者の抵抗感が最大のネックになるだろうと予想される。

ばんえい競馬が食肉用の馬だとの認識をすれば、例えば、熊本県の馬肉関係の業者に依頼して寄付金を募ったり、熊本県で場外馬券売り場を作って、遠く離れた九州で宣伝することで、日本列島を北と南で挟撃してPRする戦略も取れるのだが・・・。

つまり、もしも、ばんえい競馬が廃止されれば、肉食用の馬の生産も極端に縮小するだろう。牛の転換する業者が多いだろうが、中には廃業してしまう畜産農家も出てくるかもしれない。そうなると、困るのは、北海道などから食肉用の馬を一番多く輸入している熊本県の馬肉関係の業者なのだ。海外から輸入した馬には安全性と味の面で問題があるだろうと思われるから、今後も安定的に北海道から肉食用も馬肉を得る為には、ばんえい競馬が必要なのだということを熊本県でアピールするのだ。

しかし、中には、競馬と食肉用の馬の関係性を理解できないで、「馬を食べるのはかわいそう」という情緒に走る人間が多いのも事実だろう。果たして、論理だけで情緒の壁を崩せるだろうか?

ばんえい競馬関係者が率先して馬肉食を拡げる活動でもしない限り難しいだろうと思う。

その他の対策は、この馬肉消費量を拡大する施策をおこなって初めて有効になるものだ。この根本を正さずして、客数を増やそうとしても、回復は難しいだろう。