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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-05-13-Thursday 我が家の歴史の再開

坂本家の歴史を書くことをしばらく停止していたが再開しようと思う。

一昨年までに書いたのは、サニーデパートを飲食店ビルの坂本ビルに変えたところまでであったので、その続きを書くことにする。

父の圭司(昭和2年7月25日生)が平成4(1992)年5月2日に64歳で亡くなった。

当時の坂本ビルはテナントが引き抜かれてガラガラの状態だった。私が飛行機賃を掛けて東京に行き、帯広の経済状況をまとめた資料を持参して説得して歩いて入居にこぎつけたテナントを、オープンした翌日には他の貸しビルのオーナーやデベロッパーらが訪ねて来ては「坂本ビルの家賃よりも安くするから移って来ないか?」と誘うのである。

物販の店舗は什器備品を取り外して運べば、簡単に店舗を移動出来るのだ。新しいテナントはわが社に義理があるわけじゃぁなし、移動に掛かる経費と家賃と違約金を天秤に掛けて、すぐに元が取れるようなら簡単に出ていくのだ。

防衛策として違約金を契約時に高額にしようと考えたが、入ってくれと頼む方が高飛車な態度は取れないからその方法は難しかったのである。

誘う方のビルにしてみれば、帯広に出店した店舗に声を掛けるだけだから出張費も人件費も掛けていない。だから、その分安くしても採算は十分に取れる訳だ。こちらにしてみれば、メボシイ店を事前に調べてアポイントを取って上京し、帯広の経済状況を説明して連れて来たテナントを横取りされるのだから、いささか頭に来て抗議したこともあったのだが、相手は蛙の面に小便なのである。実に悔しい思いをしたものだった。

簡単に引き抜かれない方法をと考え出したのが「飲食店ビル」への転換であった。我が社の立地条件と東側にあった貸家の撤退との時期が上手く重なってこの転換は上手くいったのである(詳細は昔のブログを参照のこと)。

私が帯広青年会議所に入会したのは昭和62(1987)年のことである。同期入会者の中の最年少の27歳であった。

私は学生時代に体育会系のクラブにはほんの僅かしか入会していなくて、そのほとんどが文科系のクラブの所属であったから、体育会系の縦の先輩後輩という人間関係が苦手だったのだ。

その当時の帯広青年会議所(JC)は今からは考えられないような体育会系の上下関係のある団体であった。

新入会員の歓迎会で先輩から、使用中の灰皿の吸い殻をお盆に捨てただけの灰皿に、ストレートのウイスキーを入れて「飲め!」と言われたり、ホステスの靴を脱がせてその靴にウイスキーを入れて「飲め!」と言われたりしたのである。

私はお酒が好きだが、美味しく飲みたいのであって、そんな汚いモノを飲まされるのは嫌だから拒否したら、頭からビールを掛けられたのだ。頭に来て「こんなクダラナイ組織に居られるか!」と入会してすぐに退会する決意をしたのだが、同期入会した「無二の会(昭和62年入会だから私が発案して付けた名称)」のメンバーから引きとめられて1年間は我慢することにした。

この1年間は嫌で嫌でしかたなかったが、逃げたと思われるのも癪に障るから1年間全ての行事に参加して、それからスパッと辞めてやろうと思ったのだ。

先輩の強引な(汚い)酒の勧めは得意のマジックでごまかして飲んだふりをして免れた。しかし、我慢しながら続けている内に、JCが段々と面白くなってきたのだ。1年後には結局続けることになったのであった。

入会3年目の平成元(1989)年には総務委員会の副委員長に、5年目の平成3(1991)年には都市環境問題委員会の委員長に就任した。

この頃はJCが面白くて仕方がなかった時期であった。

翌平成4(1992)年からは日本青年会議所に出向することが決まっていたのだった。

ところが、平成3(1991)年の11月20日に翌年から始まる日本JCの第一回目の会議に出席している最中に父が倒れたのだ。

実は父の具合が悪くなったのは平成元(1989)年10月のことである。10月25日に検査入院で帯広厚生病院に入院して検査してもらい、11月29日に再入院して翌30日に治療をしたのだが、検査入院の後で医師から病状の説明をするから病院に来て欲しいと言う連絡が入った。

妹の夫(昭和29年生)は歯医者をしているし、私よりも年上なので一緒に行ってもらうことにしたのである。

2人で医師から話を聞いたら父の病気は末期の肝臓癌で既に手の施しようが無く、寿命はもって1年とのことだった。

大ショックだった。

父に伝えるべきか否か迷いに迷ったが、知らせたら父の寿命をかえって短くさせるだけだと判断した。母に知らせても父に伝わってしまうと考えて、兄弟だけに知らせることにしたのである。

その後、余命1年と医師に言われた父も2年半もってくれた。その間自分の病状を知らない父は母と何度も旅行に出掛けたりもした。父と母の最後の旅行は1991年の10月中旬であったが、東京の姉の家に泊りに行き、父が一人で家の周りを散歩してくると言って出掛けて迷子になったことがあった。方向感覚は抜群の父が迷子になるなんてと驚いたのだが、肝臓が悪いと新鮮な血液が脳に回らなくなって痴呆症のようになるらしい。この時はかなり病状が悪化していたようだ。

東京に嫁いだ姉も休みの度に帰郷して父と一緒に過ごすことが出来た。まだ結婚していなかった末の弟も1991年6月2日に結婚したので4人の兄弟姉妹全員が家庭を持ったので親としての務めを果たしたのではないだろうか。父と母に病状を知らせていないから、自宅でも会社でも死後の準備をすることが出来なかった、というよりもしたくなかったというのが実情だ。父が死んでしまうという現実から逃避していたのかもしれない。

しかし、さすがにこの平成3年11月の入院は、いよいよ父の死が直前に迫っていることを実感させたのだ。

日本JCへのエントリーは急遽とり辞めて代わりのメンバーに行ってもらった。もはやJCにうつつを抜かしている場合ではない。このまま行ったら会社も倒産しかねない状況に陥るのが目に見えていたからだ。(つづく)