坂本ビルにはテナントがほとんど入っていない状態なのである。
テナントからの家賃収入がまるでないに等しいのだ。
幸か不幸か父の生命保険金で一息ついているような状況であった。遺産相続は私が会社を継ぐということで、他の3人の姉妹弟たちが相続を放棄してくれたので私と母との2人で分配することになったが、この時の判断が実にまずかった。
1991年まで続いたいわゆる「バブル景気」のせいで未来予測を誤ったのである。
わが社の建っている帯広市西2条南9丁目は帯広で一番土地の値段が高い場所なのであるが、土地の値段がバブル期にボンボンボンと上がったので、固定資産税もそれに伴ってボンボンボンと巨額になっていたのだ。
それまで戦後の日本では土地の値段が下がったことなどなかったから、たとえバブル景気が崩壊しても土地の値段は下がらないだろうと予測したのである。本来なら父の妻である母が財産の半分を相続すればその分には税金は掛らないのであるが、次に何年後かに母が死んだ時に、土地の値段が更に上がった状態で、私が土地を二次相続したら相続税の支払いが大変な額になると考えたのである。だから会社の土地を私が相続して、残りは母が相続することにしたのだ。これが間違いであった。
バブルのせいで西2条南9丁目の固定資産税は史上最高額に達していた。しかし翌年からは大幅に固定資産税が下がり始めるのである。相続税率も92年がピークで翌年から税率が下がり始めたのだ。つまり、ダブルパンチで高額な相続税を持って行かれたのである。
もし、この時に母が土地を相続していたら現在の固定資産税は当時からみるとかなり下がっているから母の死亡時の相続税は相当安く済んだはずである。完全に判断を誤ってしまった。
それでも救いはまだあった。バブル当時は盛んに変額保険(高額の保険料を一時払いさせる為に土地を担保にして銀行が保険料を貸し出す保険で、相続税対策に有効な手法と言われていたが、バブルが崩壊してこの手法は破たんした)を保険会社や銀行が盛んに勧めてきたのだが、父の余命が1年と宣告されていたので、そういう相続税対策を一切行わなかったからだ。もしも余命1年と言われていなかったらやっていたかもしれないなと考えると、財産全部を無くすよりは少しはマシかと考えることにしたのである。(つづく)