当時、相談した、いわゆるプロと称する飲食業の人達は皆、「そんな大きな(ワンフロアー160〜200坪)居酒屋ばかり4軒も集めたら互いに客を喰い合ってダメになるから止めた方が良い」というアドバイスばかりであった。
私は生来のへそ曲がりで天邪鬼な性格だから、他人からダメだと言われるとがぜんとやる気が出てくるのである。
もしも、隣のビルにこの居酒屋が出店してもライバルになるのは同じことなのだから、まずは飲みに行くなら坂本ビルに集まってから、どこの店に飲みに行くか決めようよという集まり方だってあるはずだ。同じビルの中の方が相乗効果が上がるし、テナント同士がライバルに負けまいとお互いに切磋琢磨してくれた方がお客さんへのサービスも良くなると考えたのである。
これはその通りに展開した。その後全国各地に同じ様なビルが続々と誕生していったから私の考え方は間違ってはいなかったと自信を深めたのである。
飲食業のアマチュアの人間である私の方がプロフェッショナルの人達の考え方よりも当たったのである。
この事業が成功したお陰で、会社は安定した。
ビル賃貸業という商売は、テナントが少ない時はテナント探しという仕事があるが、満杯状態になると仕事がほとんど無くなるのである。
父が倒れてからはJC活動も休眠状態であった。三役就任の要請も全て断ってきたのだ。
1994年の夏に、1995年度の理事長就任予定者の井上洋一くんが我が家を訪ねて来て、次年度の三役就任を頼みに来たのだ。
彼は私が1992年に提唱した「国際環境大学構想」を更に発展させたいという希望を口にして私を誘ったのだ。
最初、私は副理事長を受けるなら別なポジションを望んだ(私がその時に何を望んだかは思い出せない)のだが、結局「国際環境大学構想プロジェクト」の担当副理事長に就任することになったのである。
この「国際環境大学構想プロジェクト」は当時170名いたJCメンバーの内の50名、2室4委員会をまとめる95年度の目玉事業であった。
1994年の三役予定者段階の時から、この95年度三役の6名(理事長1名、副理事長4名、専務1名)はよく集まって夜中の1時、2時まで会議をおこなったものだ。
会社もなんとかなったし、気力が充実していた時期であった。94年の夏には横浜でFISMというマジックの世界大会があったのでこれにだけは行かせてくれと我儘を言って行かせてもらった。イーグルスの日本公演は断念したが。
私にとってこの95年度の三役経験が人生を変えたかもしれないと思うほどになるのだ。(つづく)