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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-05-23-Sunday 我が家の歴史⑩

1993末〜94年初に掛けては身体の変調が続いた。

きっとかなりなストレスが溜まっていたのだろうと思う。

93年12月29日(水)の16:00頃に急に右耳がキィ〜ンと鳴り出した。次の日からは病院も年末年始の休みに入るから、すぐにM耳鼻咽喉科に行ったら「どうやら突発性難聴のようですね、突発性難聴というのはハッキリ原因が判らない病気なんですよ、でも発生してから1週間以内に治療をすれば治りますよ。」というので「そうですか!では治療をお願いします。」と私が言ったら、「明日から正月5日まで病院はお休みですから6日に来て下さい。」とこのM医師が平然とした顔で言うのだ。「1月6日といえば8日後じゃないですか!1週間以内なら治るんでしょう?」と言っても「休みですから」と実につれない返事なのである。

1週間以内に治療しなければ一生このキィ〜ンという音が耳から離れなくなるかもしれないのだ。なんとか医者の伝手を探していたら、娘の幼稚園の友達の親が厚生病院の耳鼻咽喉科の先生であることを思い出したので、妻にこのS先生の奥さんに電話させたら、「正月は札幌に帰る予定だったが、坂本さんなら特別に診てあげましょう」と言ってくれて診察、治療をしてくれたのだ。実に有難いことであった。

ちょうどこの93年の年末頃は我が社の東側に3軒あった貸家(昭和5年に祖父の勝が建てた借家)と坂本ビルに残っていた物販のテナントさんとの立ち退き交渉をしていた時期だったのである。

一方で立ち退き交渉をしながら、もう一方ではビルのリニューアル計画を同時に進行させていたのだ。工事もかなりの時間と費用を要するからのんびりダラダラとはやっていられないので精神的にもかなりなストレスだったのだろうと思う。

1994年3月1日にはエレベータの付け替え工事が始まり22日に終了した。自宅の改築工事も3月10日から開始した。こういうことは一遍に全部やった方が仕事がはかどるのである。

5月1日に父の3回忌を済ませて、ようやく一本立ちをした感じがした。そろそろ私の死んだ振りも飽きてきたころで、生来のジットしていられない性分がうずき始めたのだ。動き始めるとそれまでの停滞していた分を取り戻すかの如くにあらゆる物事が活発に動き出した。

7月25〜28日まで横浜でFISMというマジックの世界大会が開催された。この時にマジックの師匠であるジミー忍(この時は聖忍と改名)師の自宅に電話したら、すぐに遊びに来いと言う。横浜から電車を乗り継いで千歳船橋の店「魔法の小箱」を訪ねたら、師は最近、身体の具合が悪いのだと言う。「北海道の自然の中で療養したいから坂モちゃんの家に招待して欲しい」というのである。大恩ある師匠の頼みであるから「では、来年の夏にでもご夫婦でご招待しますよ」と言って別れたのであった。

帯広に戻ったら、すぐにジミー師から「来年までは待てないからすぐに呼んでくれ」との電話が入ったので「では、今年にしましょうか」ということになって8月22〜28日までご夫婦で帯広入りしてもらった。この間、ご夫婦でトマムや然別湖などに宿泊してもらい、27日(土)の晩には、招待してくれたお礼にと、我が家でマジックショー付きのお好み焼きパーティをしようということになって次年度JC三役のメンバーを自宅に招いてのパーティを開催したのである。

ジミー師がマジックを演じているときに「坂モッちゃん、指先の感覚が無いんだ!」と言って途中でマジックを止めてしまった。とても具合が悪そうだったのだ。

この日は我が家に泊ってもらい、私のマジックの蔵書を見てもらった。この時に、「将来は自分の蔵書と坂モっちゃんの蔵書を合わせてマジックの博物館を作ろうな」と約束したのである。28日に師夫婦は東京に帰られたが「医者に診てもらった方が良いですよ」とアドバイスして別れたのであった。

9月4日になってマコママから電話が入った「医者に診てもらったら、脳腫瘍と肺癌だと言われたが、先生には本当のことを言えない。」と言うから、とにかくすぐに手術をした方が良いと勧めた。

退院した師の全快祝いを弟子たちで12月3日にやるからというので、私も上京した。その際にマコママが私一人を別な場所に連れて行って、「何とか脳腫瘍の方の手術は上手くいったようであるが、肺癌の方は手遅れの状態だった」と言うのだ。

「あの時、坂モっちゃんが招待してくれたお陰で、最後の楽しい旅行が出来て良い思い出になったわ、本当に有難う」と感謝されたが、何だか複雑な心境であった。

ジミー師は全快祝いの席で「一流の医者に診てもらったから、もう大丈夫だ」と知ってか知らずか弟子たちを前にして言っていたが、1995年5月11日に52歳で亡くなってしまった。現在の私と同じ年齢で亡くなったのだから感慨深いものがある。(つづく)