«前の日記(■2010-05-31-Monday) 最新 次の日記(■2010-06-02-Wednesday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-06-01-Tuesday マイヒストリー

帯広JCメンバーで自民党の役員をしている後輩から、

中川昭一代議士を私に会わせるので「国際環境大学構想」を説明してくれと言われた。

1996年2月25日(日)に中川昭一代議士が我が社を訪ねて来た。以前に数人で対談したことはあったが、1対1で話をするのは初めてである。私がものの30分ほども構想を話したところで、「もういい。私には君が何をやりたいのか、サッパリ理解できない。」と言って席を立って帰って行ったのだ。私は呆気にとられて「エッ?!」と言ったきり言葉が出てこなかった。理解出来ないなら何か私に質問でもすれば良いではないか。まるで、私の話を聞くのが時間の無駄であるかのような態度に頭に来たのであった・・・。

3月6日には市役所に高橋市長を訪ねて市長室で「十勝環境ラボラトリー(TKL)」の構想の説明を行ったが、こちらもまるでそんなことには関心が無いという態度である。8日には十勝支庁を訪ねたが、こちらも同様に無関心であった。

十勝を世界的な注目を集める場所にするという、せっかくのチャンスなのに何故、政治家たちは理解出来ないのだろうか?

TKLの理念は現在の世界でも十分に通用するものだと思っているのに・・・。

政治や行政は、どうせ後からなびいて来るだろうと気楽に考えることにした。

10日には東京から文化科学高等研究院の教授たち3人が十勝を訪れていよいよTKLの活動が本格的に始まったのである。この後、大学教授らが頻繁に十勝を訪れるようになって着々とTKLの準備が整い出した。3月11日には「国際環境大学公開講座」のプレ第1回の講座「十勝の可能性」を福井憲彦学習院大学教授を講師に坂本ビルで開催した。(以後2005年6月までに同公開講座は通算80回開催した。)この時、今後招聘する(のべ80名)講師等を全員十勝のファンにしてしまい、以後は私用でも十勝を訪れてくれるようにと戦略(楽しい遊びと美味しい食)を考えて実行した。これは大成功し、現在も多くの方々が十勝を訪れてくれている。

3月30日に東京で大学設置審議会が開催され、私が田守順理事長の代理としてJC代表で出席したが、審議会では全くと言っていいほど何も決まらない。4月11日に帯広市役所で開かれた帯広市大学設置促進期成会も同様にさっぱり前に進まないのだ。

4月16日になって帯広日産自動車の田中社長が私に会いたいと言ってきた。日産自動車の本社が帯広日産を飛び越えて、TKLに資金を出すということが判ったからだ。帯広日産としても何か協力できないか?とのありがたい話であった。また、富士ゼロックスの帯広市社でも同様のことが起きていた。やはり、本社が直接にTKLに資金援助をするので、帯広市社の人は事情がまるで呑み込めなかったようなのである。

一方で新たに設立するTKLの会長の人選に手間取った。TKLの母体になる会社「十勝環境モデル研究所」の方は、大学教授らからのご指名で私が仕方なく社長をやることになったのだが、活動部隊である「十勝環境ラボラトリー」の会長には成り手がいなかったのだ。

そこで、青年会議所で私と一緒に昭和62年の同期入会で作っている「無二の会」の会長の真井康博(慶愛産婦人科病院副院長:当時)氏を口説いてお願いしたのである。同期入会といっても私よりも8歳年上で既にJCは卒業している。このTKLの方は私が「事務局長」という立場になった。

5月24日には文化科学高等研究院の竹沢えり子社長と私とで、帯広市役所の記者クラブにおいて「十勝環境ラボラトリー」の設立を発表した。

余談だが、この年、無二の会では入会10周年記念の家族旅行を計画していた。これは私が幹事役で5年前から積立貯金をしていたのである。最初はオーストラリアのケアンズに行く予定であったが、メンバーの一人が透析患者になってしまっていたので、途中で透析が受けられる場所に変更しようということになってハワイになったのだ。帯広市出身でハワイで現地のホテルマンと結婚している女性を窓口にして連絡を取り合い、とても楽しい計画を練った。私は他人に喜んでもらえる企画を立てるのが大好きなのである。医者が2人と歯医者が1人いるから長期の休みは取れない。それでも1年前から日程を決めることで対応して、8月2〜7日に8家族37名での楽しい大家族旅行を行った。(つづく)