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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-06-08-Tuesday マイヒストリー6

97年夏には帯広市長を仲間から出そう

という話が急浮上した。このまま高橋幹夫市政が続けば、帯広の未来は危ういと考えたのだ。

十勝環境ラボラトリー(TKL)を支援してくれている大学教授の方々も「この構想(TKL)を実現するには市長を自前で出すのが一番だ。我々も協力を惜しまないから是非ともやりなさい」とハッパを掛けられたのだ。

そこでS氏に市長選出馬の話を持ちかけたら、本人もその気になって「当選したら君が助役をやって補佐してくれるか?」とまで言うのである。

しかし、S氏の父と兄に、私が呼び出されて「変なことに弟を引っ張り込まないでくれ!」ときつく言われ、本人も親兄弟が反対するので出馬しないということになってしまったのであった。

大学教授らからは「TKLには人材が豊富にいるんだから、別な候補者だっているだろう」と更にハッパを掛けられて、今度は若いG氏に白羽の矢が立った。

この時に「TKLがそんな政治的な活動をするなら俺は辞める」と言って抜けたメンバーもいた。

そんなこともあって、TKLの役員会議でこの件を話し合う度に、段々と皆が弱気になってトーンダウンしていった。TKLが政治活動をするのは如何なものかという意見が徐々に大勢を占めたのである。

結局、TKLの幹部会議で、TKLは選挙には一切関わらないという結論に達したのである。大学教授らから壮大な夢の実現計画を吹き込まれたGと私の2人以外は・・・。

皆の腰が引ける中、Gと私は、市長選挙には、TKLとは全く無関係で個人的に出馬するのだと宣言して出馬することにしたのだ。

だが、私もGも選挙に関しては全く無知の素人である。

大学教授から、市川房江や菅直人の選挙参謀を務めたK・M氏を紹介され、Gと2人で東京にまで出向いて選挙の指導を仰いだりもした。

しかし、Gは、噂を聞きつけた連中から、酷い嫌がらせを受けてスッカリ嫌気が差してしまい、最後の最後98年2月中旬には出馬はしないと言い出したのであった。つくづく選挙とは汚いものであることを知った。

結局、TKLからは市長候補者が出ないということになって、TKL解散の危機は消滅し、また元の鞘に収まったのだった。

こんあこともあった。10月7日の夜に、帯広経済界の先輩であるY氏とY氏から、私とGが呼び出された。「お前たち2人がやろうとしていたことは全部知っている」「実は我々は、高橋幹夫の対抗馬としてある人物を担ぎ出したいとずっと活動してきたのだ」「その人物は北海道開発庁の役人だが、とても良い人物だ」「奥さんが帯広出身で、本人も帯広畜産大学の卒業生だ」「ついてはお前らに、この候補者の後援会の役員をやって欲しいのだ」と言うのである。その候補者というのが砂川敏文前市長だった。

自分たちが引っ張り出す人物なのに、自分たちは陰に隠れて、表には違う人間を立てるやり方には疑問を持ったので、私は「まだ一度も会ったこともない人物を後援することなんて出来ない」と即座に断ったのである。

98年春の市長選挙で、現職の高橋幹夫氏が三期目に挑戦するという本来なら現職が一番強いはずの選挙で負けて、新しく砂川敏文氏が市長になったのだった。(つづく)