この年に招聘した公開講座の講師(いずれも肩書は当時)は、1月:石山修武(早稲田大学教授)、2月:高野禎子(湘南国際女子短期大学助教授)、3月:阿波弓夫(法政大学講師)、4月:塚原史(早稲田大学教授)、5月:内田隆三(東京大学教授)、6月:古橋信孝(武蔵大学教授)、7月:寮美千子(作家)、8月:美濃羊輔(帯広畜産大学教授)、9月:松下和夫(環境事業地球環境基金部長)、10月:森重雄(電気通信大学助教授)、11月:初田亨(工学院大学教授)、12月:平田敏行(建築家)の12名であった。
私は事務局長として9つのプロジェクト全てに関わっていたが、中でも、法政大学の陣内秀信教授とその教え子である岡本哲志(都市建築研究所主宰)氏をブレーンにして、私がプロジェクトリーダーとになって「都市構想プロジェクト」が始まり、帯広市中心部の調査・研究を始め、帯広市中心街の将来像を模索したのだった。
また、私がプロジェクトを直接に担当したもう一つのプロジェクトは「場所カープロジェクト」であった。これは日産自動車と協働して十勝という場所に相応しいガソリン以外の燃料で走る自動車を開発しようという試みである。
具体的には電気自動車ということになっていった。当時の電気自動車のウィークポイントは気温がマイナスになるとバッテリーの電気が放電してしまって長持ちしないということであったから、冬季間、気温がマイナス20℃以下にもなる十勝で通用する電気自動車を開発すれば、世界中の寒冷地でも使用可能な車になるという目論見であった。
当時、既に、日産自動車では「EV5」と「ハイパーミニ」という電気自動車を開発していた。このハイパーミニを使って、自動車の領有実験(カーシェアリング)を行おうと企画したのだが・・・。
これは失敗した。帯広駅はターミナル駅ではないので、自宅から駅に自動車で通う人がほとんど(全くといってよいほど)居なかったからである。
それでも、「帯広TMO提言書(1998年4月1日発刊)」にも盛り込んだプランだが、小型の電気バスを走らせて、帯広の新しい公共交通体系を作る計画を考え出したりもした。
5月16日(私の結婚記念日)から「新聞紙上セミナープロジェクト」の「十勝の場所の意志に学ぶ」がスタートした。地元の新聞、十勝毎日新聞の土曜日の文化欄に1000〜1200字のスペースを提供してもらって、ここに公開講座に来てもらった講師の方々から「十勝に対する提言」を寄稿してもらうプロジェクトである。2006年3月25日までの429週に亘って掲載し、これをまとめた本を3冊出版した事業である。書くことが大の苦手だった私が、今日の様に、書くことが好きになる要因を作ってくれたプロジェクトであった。
7月に講師に呼んだ寮美千子さんと「環境童話製作プロジェクト」がスタートした。こちらのプロジェクトリーダーは、本屋の荘田雅紹くんと北海点字図書館の後藤健市くんである。
96年9月24日に後藤くんが、面白い作家を見つけたので一緒に相模大野まで会いに行ってくれと言い出したのだ。「父は空 母は大地 アメリカインディアンからの手紙」というインディアンの酋長の言葉を寮さんが翻訳した本を読んで感動した後藤くんが、彼女にこのプロジェクトを委託したいのだと言うのだ。
一緒に会いに行ってすぐに寮さんの人柄に惚れ込んで、その場でお願いをした。96年11月28日には寮さんに十勝入りしてもらいプロジェクトが始動した。
このプロジェクトは北海道の先住民族アイヌの口承物語を絵本にして、子供たちにも環境問題を解り易く伝えようというものである。寮さんと地元の主婦の方々の協働によるアイヌ古老へのインタヴューが始まったのである。(つづく)