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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-06-18-Friday マイヒストリー12

98年はいよいよ青年会議所(JC)を卒業する年だ。

12月の卒業が近づくとロータリークラブやライオンズクラブから入会の誘いが頻繁に来るようになった。

帯広JCのメンバーは卒業するとロータリークラブに入会する人が多い。私の同輩たちもロータリークラブに入会したメンバーが多くいた。

私は父が帯広ライオンズクラブに入会していたこともあって、ライオンズクラブからも執拗に入会勧誘を受けたが、どちらの会にも入会するつもりがまったくなかった。

その理由の第一は、そもそも群れることがあまり好きな性質ではないことがあげられる。私が「北の屋台」辞めた時に、私を評して「坂本は協調性が無いから・・・」というコメントを新聞にしていたご仁がいたが、確かに「協調性」は欠如しているかもしれない。自分でもかなりへそ曲がりな性格なのだと感じている。

しかし、逆説的に言えば、私に協調性が無いからこそ北の屋台は誕生したのだと思う。

北の屋台を造るときに、99年から「まちづくり・ひとづくり交流会」という任意団体を立ち上げて活動していたが、その仲間内でさえ、(最初は屋台で盛り上がっていたが、途中から法律の壁、意識の壁に阻まれて屋台は出来ないと諦めムードが支配した)北の屋台が成功すると思っていた人間は皆無だったであろう。あの時、皆の意見に流されて屋台を諦らめていたら、成立する前に北の屋台は消滅していたことであろう。

他人がダメだ、無理だ!と言うものに対して、何くそ!と、違う角度からチャレンジする私のへそ曲がりな性格が北の屋台を生み出したのだと自負している。

この部分は後日詳細に書くことにして。

第二の理由は、ロータリークラブやライオンズクラブでは「まちづくり」は出来ないと考えたからだ。この当時は「十勝環境ラボラトリー(TKL)」に、お金も時間も掛っていたし、内容も充実していたから、それ以外の余分な活動をしている余裕がなかったということもあったのだ。

後日談だが、TKLにお金を拠出してくれている副会長の父親から、私に「この詐欺師野郎!息子から金を引き出して、何をくだらないことをやっているんだ!おまえは一体いくら金を出しているんだ!人様の金よりもまず自分の金を使え!」と電話が入ったことがある。私が「貴方の息子さんがTKLに出して下さっているお金の6倍以上の金額を私は出していますし、毎日、自分の時間も使って活動しています。」と答えたことがあったが、そもそも、TKLは私が積極的にやろうと言い出したものではなかったのだ。

最初はこの副会長等がやろうと言い出したことなのである。私は国際環境大学構想プロジェクトの担当副理事長だったこと、ビル賃貸管理業という仕事柄、ビルのテナントが埋まっている時には暇だろうということ、私の坂本ビル内にTKLの事務所を置くことになったことなどの経緯から事務局長に就任することになったのである。自分から強く望んで始めたわけではなかったのだ。

しかし、現在となってはTKLの事務局長をやれたことに心から感謝している。

TKLの活動をしたことで以後の私の人生はとても充実したものになっていくからだ。

ロータリーやライオンズで新入会員としてその他大勢で活動するよりも、TKLの中心で活動している方が遥かにやりがいもあるし、面白くて、楽しかったのだ。

JCを卒業してからのTKLの活動は、それほど充実していたのである。(つづく)