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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-06-20-Sunday マイヒストリー14

98年に帯広市が立ち上げた「TMO」の委員会に、

「十勝環境ラボラトリー(TKL)」からは私一人だけが参加していた。

「TMO」の会議の主題は「イトーヨーカドー跡の利活用」と「シネマコンプレックスの新設」の2点であった。「イトーヨーカドー跡」はこの98年11月の稲田地区への移転以来、2010年の今日に至るも閉められたままであるのだから、この12年間何ら具体的な活動が無かったことの証左であろう。

一方の「シネマコンプレックス」は、現在、駅北に「パチンコ太陽グループ」のシネマコンプレックスが営業しているから、一見するとTMO事業が成功したかのように見えるが、この時の「シネマコンプレックス」は地元の「いせき興業」の映画館をまとめてシネマコンプレックスを造るという計画で進んでいたのだ。

それが結局は「いせき」側が採算が合わないからとシネコン建設を諦めてしまい、逆に映画館を4館を廃業してしまった。この時のいきさつで、当時、札幌から帯広に進出して営業していた映画館の「スガイグループ」の2館も、シネマコンプレックスが出来たら営業上対抗出来ないからと既に廃業していたから、帯広市から映画館が無くなってしまうという文化面での危機的状況にまでなりかけたのだ。

結局は函館でパチンコ屋とシネコンを合わせて営業していた「太陽グループ」が進出してきて、帯広市から映画館が無くなるという事態は何とか回避されたが、この太陽グループのシネコンは「TMO」事業とはまったく無関係の単独の進出ということなのである。

つまり帯広市の「TMO」はまったく機能していなかったのだ。

一向に進展しない状況に苛立ってきた委員を、1999年2月24日にTKLの事務所に集めて会議を開いたことがキッカケになって「まちづくり・ひとづくり交流会」が誕生することになる。

TKLは青年会議所(JC)を中心とした異業種のメンバー構成であるが、主婦層や農家などの人材がいない。TKLの活動をする内に知り合った主婦や農家にも声を掛けて、TKLよりも幅広い人材を集めて、帯広の「まちづくり」を自分たちの資金と行動力で行おうとしたのである。

いくら素晴らしい「提言書」を作成しても、為政者や執行者が認めてくれなければ日の目を見ないということが嫌というほど判ったからである。

青年会議所時代に作った「国際環境大学構想」しかり、TKLで作った「TMO提言書」しかりである。

この時に、まちづくりの指導を仰いでいた大学教授から「全国各地のまちづくり活動を見てきて、その失敗例の最たるものは、危機感を持つあまりに先走って、理念や目標を定めない内に行動を起こしてしまうことだ。」「理念や目標なき活動は必ず途中で空中分解してしまう。」「まずは焦らずにメンバーの共通認識を持つことから始めた方が良い。」とのありがたいアドバイスをもらったのだ。

共通認識を持つ為に何をしたら良いかを考えた末に、まずは皆で帯広の歴史の勉強をしてみようと思ったのである。

これが成功した。

本州の場所の歴史の勉強なら、1400年前の奈良時代とかから始めなければならないだろうから時間も掛るだろうが、帯広の開拓の歴史は、たかだか120年程度でしかないから、たった4回の勉強会で終了したのだ。このスピード感が良かったのだと思う。あまり勉強ばかりしていると飽きてしまうからだ。

また、この時にメディアに情報公開する作戦を立てた。会議に参加出来ない人にも新聞等を通じて、我々の志を知ってもらおうという作戦だ。これも実に上手く運んだ。私の手元に「北の屋台新聞掲載記事資料 1999年2月25日〜2002年5月15日」という新聞の切り抜きを一冊の本にまとめた資料があるが、何とこの本のページ数は372ページもあるのだ。3年3カ月の間に、「北の屋台」の活動が新聞に載ったのが372回以上もあったということだから、つまり3日に1度は新聞で取り上げてもらったことになる訳だ。(つづく)