名称に「屋台」という文字を入れなかったのは、私達の活動は屋台だけではなく、「起業」家を育てる活動という意味を込めたのである。
しかし、一緒に活動しているメンバーは皆、腰が引けていて、私が代表理事(理事長)の就任を依頼しに行っても誰も受けてくれないのである。恐らくメンバーでさえこの時点では、この事業が上手くいくとは思っていなかったのだろう。
ともかく、商工会議所の軒先を借りての事業から、一本立ちして自由に活動が出来る体制にはなったのであった。
このブログの「マイヒストリー22」にチラッと書いた、北の屋台の土地を借りるに至った経緯を詳しく知りたいから早く書けというメールを何本か頂いた。
ここで、地主さんとのやり取りを書こうと考えていたのだが・・・。
でも、よくよく考えたら、私は北の屋台を2007年3月末日で卒業しているが、現在も北の屋台はこの地主さんから土地を借りて営業している。この時点で裏話を公表してしまうと、現在営業している店主たちに迷惑が及ぶ可能性がなくもない。
しかも、私が北の屋台を卒業する前年に地主さんと交渉して10年間の期間延長を了承してもらっている手前、この裏話を公表するのは期限が終了する2017年まで待ってもらいたいと思う。あしからず了承を願う。
さて、この2000年の「十勝環境ラボラトリー(TKL)」の活動から紹介しよう。「国際環境大学公開講座」は(肩書は当時)1月:千葉博正(札幌大学大学院教授)・2月:倉原宗孝(北海道工業大学助教授)・3月:橋爪紳也(大阪市立大学助教授)・4月:今尚之(北海道教育大学教授)・5月:加藤秀樹(構想日本代表)・6月:朝吹誠(海外広報協会専務理事)・7月:石澤良昭(上智大学教授)・8月:土谷富士夫(帯広畜産大学教授)・9月:福井憲彦(学習院大学教授)・10月:陣内秀信(法政大学教授)・11月:清水祥夫(帯広畜産大学助教授)・12月:遠藤啄郎(横浜ボートシアター代表演出家)の12名、北の屋台事業で滅茶滅茶に忙しい中でも毎月の開催をしたが、その多くは北の屋台事業で関係した教授たちで、北の屋台事業の意義を広める狙いがあったのである。
この講師陣らに執筆依頼をして十勝毎日新聞の土曜日の文化欄に毎週掲載している新聞紙上セミナー「十勝の場所の意志に学ぶ」の原稿が溜まったので1月29日に「まちづくり・ひとづくり提言集VOL1」として出版した。
この本はその後2003年3月31日に「VOL2」を2007年3月10日に「VOL3」を出版した。今でも時々読み返す時があるが、まちづくりの本としては出色の出来であると自負している。
私がこのプロジェクトを担当していたのだが、原稿を依頼していた先生のドタキャンによって、その穴を埋めるべく書いていた原稿によって、段々と書くことが面白くなってきて、今日の様に毎日ブログを書くようになったのだから感謝、感謝である。
また、北の屋台事業では、私の研究心と好奇心がうずき、1999年度の国に提出した報告書に書いた「帯広に於ける屋台の歴史」の研究に続き、日本の屋台の歴史に踏み込んで研究を深めた。これは、2000年度の国に提出した報告書に掲載し、その後、これらをまとめて2001年7月29日の北の屋台オープン日に合わせて「北の屋台読本(メタブレーン社刊)」として出版することになった。
何故、北の屋台オープンの日に合わせて出版したかと言うと、私は北の屋台事業の成功に確信を持っていたことと、その成功を「後付けの理論」だと言わせない為である。
よく全国的には成功した事業では、後から成功した理由を「後付け」で言って、さも最初から自分は判っていたかのようなことを言う輩が多いことに疑問を持っていたからだ。
だから私は他人から後付けの理論だと言わせない為に、まだ事業が始まってもいない開業日に合わせて出版したのである。(つづく)