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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-09-12-Sunday マイヒストリー30

北の屋台事業の方では2001年2月16日に

2000年度の報告書を持参して東京の全国中小企業団体中央会に出向いてプレゼンをした。ここで2000年度の事業の成果を認めてもらえると、2001年度は「実験化事業」としての予算が付くのである。

担当者の人からは、他の事業では補助金を出しても、あまり成果が上がっていないとのことで、北の屋台をとても有望な面白い事業だと認めてくれた。プレゼンが上手くいって、2001年度補助金の内定をもらうことができたので、亀戸のサンストリートや幕張のカルフールなどを視察して帯広に戻った。

国が北の屋台の実現に向けて補助金を出すというので、帯広市役所と帯広商工会議所からも補助金を出しますよとの連絡が入った。

当初、補助金は当てにせずに、全額、自分たちで資金を工面して実現するつもりであったから、市役所や商工会議所までもが補助金を出してくれるという知らせは、金銭面での負担が軽減されて、精神的にはかなり楽になった。でも、最初から補助金を当てにして事業を進めていたら、きっと北の屋台は実現しなかったと思う。 

補助金は貰えるがそれでも足りず、金融機関からは1500万円を借りなければならなかった。この時、帯広信用金庫と金を借りる交渉をしたのだが、保証人が二人必要だとのこと。北の起業広場協同組合の発起人のメンバー達に依頼したが、誰もハンコを付いてくれない。この時点では誰もこの事業が上手くいくとは思っていなかったのだろう。

私は北の屋台は自ら進めてきた事業であるので他のメンバーには金銭面で負担を掛けたくなかったから、もしこの事業が失敗したら、この1500万円は私が被るつもりであった、だから、信金に保証人は私一人で良いだろうと交渉したのだが、二人でなければダメだというのである。

誰も保証のハンコをついてくれないので、金融機関からは組合の(当時の)理事長は会社をつぶしたばかりで財産が無いから保証人としては相応しくないが、専務理事がハンコを付くのだから体裁上、理事長ならOKにしようということに落ち着いた、もしもの時は私から取れば良いとの判断で・・・。

この理事長は、その後ことある毎に、「自分が坂本と二人で保証のハンコを押した」と自慢するから「恥ずかしいから、保証の話はしないでくれ」と言ってその話を止めさせた。金融機関とのやり取りの話を公表したら、この理事長が恥をかくことになるのに、まるでそのことを理解していないのだ。

お金の算段や設計は順調に推移していったが、肝心の屋台の応募が不調であった。やはり、先例の無い事業で、冬の寒さの心配が大きかったのだろうと思う。

私には、話題作りの為に、北の屋台で「立ち食いの寿司屋」をやらせたいという思いがあった。

私が研究した屋台の歴史で、終戦後の日本には屋台が雨後のタケノコのように沢山出現したのだが、その多くは「江戸前寿司」の屋台であったというのが気になっていたのだ。生のお米を1合、寿司の屋台に持って行き、加工料として若干のお金を足せば、10カン程の寿司を出してくれたと文献にあったのだ。その理由が何故なのかは不明なのだが、「江戸前寿司」は法律上、優遇措置を受けていたので、屋台の多くがその恩恵を受ける為に「江戸前寿司の屋台」が日本中に溢れたのだという。

それが昭和23年1月1日に施行された食品衛生法によって、ナマモノを屋台で販売することが禁じられ、日本から寿司の屋台が姿を消したのである。だから、その当時(2001年)には日本には寿司の屋台は存在しないはずであったのだ。

因みに、寿司屋のカウンターというのは、寿司の屋台が原型だとも言われている。

この絶滅してしまった寿司の屋台を、北の屋台で復活させれば、日本中の話題になると考えたのである。

寿司は、酒を飲んで小腹が空いたら、4,5カン食べてもお腹にもたれないし、出前OKの屋台村にするつもりだったから、余所の屋台の客からの注文も来るだろう。おまけに帰りにお土産に持って帰るには最適のアイテムであるから、3坪の屋台が5坪分にも10坪分にも生かせるはずだと考えたのだ。

ところが、寿司の屋台の応募が無かったのだ。なんとしても寿司の屋台をやりたかった私は、帯広の寿司屋さんにこの話を持っていったのだが、誰も乗ってこなかったのである。

これはいよいよ自分でやってやるかと、シャリを入れる桶の形をした寿司ロボットを借りてきて実験までやったのだが、結局、寿司の屋台は出来なかったのである。

20軒分のブースを造るのに、ラーメン屋の応募ばかりなのである。屋台=ラーメンというイメージが定着してしまっているのだろうと思った。

せっかく、どんな料理でも出せる21世紀型の屋台を考案したのに、現在も多数あるラーメンの屋台ばかりでは話題は作れない。

応募に合わせてラーメン屋ばかりを入れてしまったら、北の屋台のイメージがラーメン横丁やラーメン村になってしまいかねないからだ。それでは北の屋台は失敗に終わってしまうだろうと考えた。

そこで急遽、同じ職種の店舗は2軒までというルールをこしらえた。ラーメン屋も2軒まで、帯広名物の豚丼屋も2軒までと・・・。

7月29日のオープン時には20軒のブースの内、決まっていたのは16軒で4軒は空けたままでのスタートとなったのであった。

しかもその最初の16軒の内の2軒を、メンバーの後藤健市くんに無理を言ってやってもらったのである。後藤くんには「君の発案で屋台をやったのだから、何とかラーメン以外の店を見つけてこい」と無理強いしたのである。

不動産屋じゃあるまいし、素人の後藤くんに見つけられる訳がない。彼は仲間とお金を出し合って屋台を運営してくれたのだ。時には彼自身が屋台に立って。(つづく)