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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-01-26-Wednesday マイヒストリー42

2004年6月は第二期の入れ替えを行った。

第一期で北の屋台の名物になったメニューに「ラクレットチーズ&ポテト」があった。これは大学の先輩でもある宇佐美明男さんが屋台に出店して流行らせたメニューで、店名も「ラクレット」と名付けたほど宇佐美さんにとっても熱の入ったメニューだ。客の目の前で半円形のラクレットチーズをフランス製の電熱器でトロ〜リと溶かしてジャガイモの上に掛けて食べるものだ。私も大好物だし、テレビや雑誌などの絵姿が良いので、すっかり北の屋台の名物になったメニューなのである。

その「ラクレット」の宇佐美さんが北の屋台を一期で卒業して、道路の向かい側のビルに移転するという。これが本来の北の屋台の理念である。しかし、ということは名物の「ラクレットチーズ&ポテト」が北の屋台から消えてしまうということになるわけだ。

第二期の募集を始めてすぐに、「北の屋台ネット委員会」のメンバーで当初から屋台のデザインなどの面で参画していた阿部誠さんが、「第二期には店主として応募したい」と申し出て来た。北の屋台設立の趣旨から分かっている阿部さんが店主として参画してくれるのはもちろん大歓迎だ。

阿部さんと面接し「どんな屋台をやりたいのか?」と尋ねたら、「囲炉裏を造って魚の干物を目の前で焼く炉端焼きをやろうと思う」と言うから、私は「阿部さんには炉端は似合わないよ、宇佐美さんが卒業して名物のラクレットが北の屋台から消えるのは寂しいから、ラクレットチーズをやらないか?宇佐美さんには私が交渉してあげるし、チーズを造っている協働学舎の宮嶋さんにも私が話をつけてあげるから」と説得したのであった。宇佐美さんも「ラクレットは私の専売特許ではないし、もちろん誰がやっても構わないよ」と快く了承してくれたので、スムーズに阿部さんがラクレットチーズを扱えるようになった。やはり、こういうことは、後々、感情問題にならないように、先行者に事前の了解を得ることが重要なのだと思う。

その後、阿部さんが始めた「プチプレジュール」はラクレットチーズを扱い、北の屋台でも1,2位を争う繁盛店になった。阿部さんは私に足を向けては寝られないはずだ(冗)。

2004年6月12日(月)18:30に北の屋台の第二期がスタートした。

第一期の時には、朝と昼と夜とで営業形態を変えて、24時間の営業を考えていた。

朝は、屋台を組み立てずに屋台の前の空間を利用して、農家から採れ立ての野菜を並べて売る朝市として。

昼は、屋根だけ出して客席を組み立てずに、テイクアウト型の弁当販売屋台として。

夜は、客席を組み立てて、屋台として営業する。という具合である。

保健所が、昼と夜とで営業者が変わるのは責任の所在がハッキリしないからダメだと認めてくれなかったし、狭い屋台を昼夜別々の人間が使用するのも難しかったのである。

このプランを実現する為には、個人契約の屋台では無理であったが、屋台の営業をする会社と契約をして、屋台に立つ人間は、その会社の社員であれば昼夜別の人間が立ってもOKであったのだ。

だから、第一期は個人契約半分、会社契約半分という割合でスタートしたのである。ところが、この企画は机上の案に終わってしまったのだ。

会社契約をした屋台も最初は、昼夜の営業をしていたが、昼間の営業は、アルコール類が出ないから実入りが少ないのと、夜が忙し過ぎて、昼まで手が回らなくなっていったので、段々と昼の営業をする店が減り始めてしまい、強要する訳にもいかなくなってきたからだ。

やむを得ず、夜の営業のみになっていった。

その内に会社契約で営業している屋台と個人で営業している屋台との売り上げの格差が出始めた。売れなくても給料を貰える会社契約の屋台と、働いた分だけ実入りが増える個人契約の屋台とでは、力の入れ具合が違っていた。たとえ日々の差は少しでも、その差を1年分にするとかなりデカクなるものだ。

こうなると、会社契約というのは屋台にとって、あまり歓迎すべき方法ではなかったなと感じていたのだ。だから第二期の募集は、原則として個人契約のみとすることにしたのである。(つづく)