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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-03-02-Wednesday マイヒストリー51

2005年6月3〜5日まで

日本IBMが静岡県伊豆の天城ホームステッドで開催している「第18回 富士会議」というものに招聘された。

この前年に、懇意にしている、この会議のOGでもある斎藤聖美(翻訳者・ジェイボンド証券代表取締役)さんから、ご紹介を頂いて既にメンバーにはなっていたのだが、2004年は時期的に忙しかったのと、全国各地から錚々たるメンバーが集まる会議なので気後れしたことと、この会議の参加資格が、概ね45歳までという年齢制限もあった(この年齢制限は50歳に変更になった)のが重なって欠席していたのである。

日本IBMの事務局の方から、この2005年は、北海道のメンバーは貴方一人だけだから、どうしても参加して欲しいとの強い要請があって、渋々ながら参加したのであった。

コンピュータの会社である日本IBMが、静岡県伊豆の天城に「天城ホームステッド」というホテルみたいな研修施設を持っている。ここに毎年6月の初旬に全国各地の、50歳までのオピニオンリーダーを50名程も集めて、講習会・勉強会・討論会を1泊2日で泊まり込みで開催するのである。

メンバーは現役バリバリの官僚や、これまた現役の若い知事や衆院議員などの政治家、大学教授、研究者、企業人、新聞記者、作家など、錚々たるメンバー構成なのである。そんな中に私なんぞが入っても、まともに皆と話せるかなぁと心配したのだが・・・。

まぁ、何事も経験である。参加せずに後悔するより、とにかく一度は参加してみようと考えた。参加してみたら、やっぱり皆すごい人たちばかりで、自分の意見をシッカリと持っているし、またドンドンと積極的に発言もするのだ。奥ゆかしい(?)性格の私は、最初は気後れしたものの、段々と場の雰囲気にも慣れてきて、意見を言える様になってきた。そうなると面白くなってきて、この後卒業(2008年)するまで、4年間毎年、参加し続けたのだった。

日本IBMは北海道でも「北海道会議」というのを開催していて、こちらにも招聘された。北海道会議は北海道在住のメンバーだけの会議であるし、年齢制限もないので、若手から老齢の方まで年齢の幅は大きい。この年は10月21・22日とキロロで開催されたのだった。

北の屋台は二期目に入って順調に進んできた。この辺でまた本を書かないか?という話が出てきた。前著の「北の屋台読本(メタブレーン社)2001年7月29日発刊」は北の屋台の成功を一人確信していた私が、「後付けの理屈」だと、他の連中に言わせない為に、あえて北の屋台のオープン日(2001年7月29日)に合わせて発刊した本であることは前述したのでここでは割愛するが、北の屋台はエピソードには事欠かないほど、毎日、毎日、面白いことが起きる。

「北の屋台通信」(A4版8ページ)をVOL 1〜5まで書いて5回発行したり、十勝毎日新聞の文化欄の「十勝の場所の意志に学ぶ」という1200字程のコーナーに書いたりしてはいたのだが、これではまるで紙面が足りないのだ。

書くことが面白くなってきていたこともあり、二冊目の本「北の屋台繁盛記(メタブレーン社刊)2005年7月29日発刊」を出版することにした。

前著の発行日とわざわざ日付を合わせて、前著に書けなかったオープン後のエピソードを盛り込むことにしたのだ。

私は、書くスピードもメチャメチャ速い。題材が決まったら、筆はドンドンと進むのである。5月の連休中には原稿をほぼ書き上げていた。

出版社からの校正原稿を確認する作業をしていたら、妻が「私に感謝する一文を加えろ!」と言うのである。確かに、北の屋台を始めてからは、会社の仕事も家も妻に任せっきりだったから、本の最後の「あとがき」のそのまた一番最後に妻に対する感謝の気持ちを書き加えたのだった。

製本されたものは7月25日に手元に届いた。前著「北の屋台読本」は143ページの薄い本であったが、二冊目の「北の屋台繁盛記」は207ページに増えて厚くなり、少しは本としての体裁も整った。

出来あがった本を、北の屋台の理事者たちにも配布したが、これが理事者たちには不評なのであった。「自分たちの名前が本の中に登場しない」「女房に感謝するより、まず我々に感謝しろ」と言って私に文句を言うのである。

実は、私は原稿を書いている時には、十勝環境ラボラトリー(TKL)時代からのメンバーを実名を挙げて登場させていたのだ。もちろん宣伝を兼ねての本であるから、書いてあることは良いエピソードばかりである。

2003年5月に横領問題を起こしたKに代わって、新しく北の屋台の理事長になったS医師が就任したのだが、このS医師が「北の屋台関係では、俺の名前は一切出すな!」と就任時に皆の前で宣言した。

S氏の気持ちを推測するに「Kの問題があったので、仕方なく、成功するかどうかも判らない北の屋台の理事長になったが、医師としての自分の地位が、屋台の理事長なんていうポジションに就いたことは世間に公表したくない」という様な感じだったのではなかろうか。まだ、2003年5月には北の屋台が今日の様な成功を収めるとは予想もしていなかったのだろう。

理事長の名前を出せなくて、その他の副理事長以下の名前を出せるはずがない。それこそそんな事をしたらオカシナ話になってしまう。だから、文中では「私たち」と複数形で表現したのである。

ところが、何故かこの「私たち」という表現を「私」という単数形の表現であるかのように思い込んでしまったのだろうと思う。「坂本は全て私が、私がと、書いている」と言うのだ。

この誤解は、拙著「北の屋台繁盛記」を実際に読んでもらえば、一目瞭然、すぐに判ることなのだが・・・(つづく)。