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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-03-05-Saturday マイヒストリー53

2006年1月に

坂本ビル4階に入居していた「アイク」という消費者金融の会社が撤退することになった。一時期、消費者金融業界は隆盛を極め、日本中の中心街の空いたビルを埋め尽くしていた感があったが、法律が変わって高い金利が取れなくなったことなどから急激に勢力が弱まり、テレビでも消費者金融の女性が団体でダンスするCMやら可愛い犬やらを使ったCMばかりが目立っていたが、このコマーシャルも急に激減した。

この4階の空いた場所を使って妻が「介護」の店を開きたいと言い出した。妻の両親は健在なのだが、将来の介護することを想定して、その為の練習にと前年から介護二級ヘルパー等の資格を取得していた。その講習を受けた時に、介護の方法を正しく知れば、介護する側の人間の身体的、精神的負担を軽減できることを学び、それを広く世間に伝えたいと言うのだ。

ビルの4階に実物大の家の部屋(玄関・台所・寝室・リビング・風呂場・トイレ・廊下など)を造り、床材の種類を変えたり、台所の流し台の高さを変えられたり、壁が移動したりと、色々なアイデアを導入して、家を改築する際の目安にしたり、介護の研修をしたり出来る様な店にしたいのだという。

志は大変良いし、そういう類の介護の店も無いから、協力することにした。7月7日に「シニア・ケアー・ショップ・パーム」という名称でオープンしたのだった。

2月21・22日と東京赤坂のニューオータニホテルで国土交通省が主催する観光関係者の大きな会議が開催され、私に「観光カリスマ」として出席要請があった。23日は帯広で会社の重要な会議の予定が入っているし、24日からは山口県下関市で講演のスケジュールが入っている。帯広—東京—帯広—下関という強行スケジュールだが、帯広市役所の友人に相談したら、出た方が良いとのアドバイスに従って参加することにした。

22日に会議が終了後に、羽田空港から帯広空港への17:50発の最終便に乗って戻る予定だったのだが、帯広空港が濃霧の為に着陸出来なくて新千歳空港に着陸したのだ。千歳から列車に乗って帯広駅に着いたがヘトヘトに疲れてしまった。帯広空港の駐車場には車が置きっ放しだが、24日にはまた再度、帯広空港に行かなくてはならないから、取りに行くのを止めた。

23日は10:30に長崎県からの北の屋台の視察への対応、午後からは入居希望テナントの商談が2軒、夜には北の屋台のS理事長の父親のお通夜と休む暇がない。

翌、24日は帯広駅前からバスで帯広空港に向かって、帯広空港—羽田空港—宇部空港と乗り継いで宇部空港から下関市まではバスで移動して、体力的にもかなりしんどかった。

下関での講演は大好評で、魚の仲買人の社長さんが「アンタに天然物のトラフグをご馳走したい」と一尾8万円もする天然トラフグのてっさし、てっちりをたらふくご馳走になり、疲れも吹っ飛んだのだった。

3月10日に北の屋台が、ホクレン主催の「ホクレン夢大賞」の農業応援部門の大賞を受賞し、その表彰式に出席する為、札幌グランドホテルに行ったが、これも超ハードスケジュールであった。表彰式は午前中なので、札幌に前泊しなくてはならない。9日の夕方に到着する列車で札幌に行き、そのまま小樽まで足を伸ばして、小樽の屋台村「出抜き小路」を視察して来たのだ。かなり飲んでから電車で札幌に戻り、翌日の午前中の表彰式と懇親会に出席した。10日の18:30から帯広のとかちプラザで「卸売団地」の人たちへの講演が予定されている。当初は札幌発13:58−16:18帯広駅着の列車で戻るべく予定を立てていたのだが、懇親会が長引いて、その列車には間に合わずに、札幌駅15:50−18:18帯広駅着の列車にしか乗れなかったのである。

とかちプラザは駅前だから、ギリギリ間に合って講演を無事に済ませることが出来た。

3月17日の13:00〜15:00に北海道開発局の依頼で網走市で講演をした。雪道の運転は大嫌いなのだが、網走までJRで行くのはかえって辛いから仕方なく運転して行った。懇親会にも参加したので網走のホテルに泊って、18日に帯広に戻るのだが、18日は13時から帯広のとかちプラザで「移住」のシンポジュウムがあり、そこで基調講演をするスケジュールである。早朝に網走を発って11時に帯広に到着した。「移住」に関する講演ということで、いつもの北の屋台の講演とはちょっと異なる講演内容である。運転しながら話す内容を考えた。

翌19日は14:00から釧路で講演、これはJRで往復して日帰りし、今度は20・21日と道南のせたな町で講演した。

2月・3月は年度末を控えての予算消化の為なのか、講演の依頼が多い月で例年ハードなスケジュールになる。しかし、これも北の屋台の為、いや帯広の宣伝の為と思って、自分の会社の仕事も放ったらかしてこなしていた。

そんな私を見て、妻は「忙しそうだけど生き生きしているね。でも身体には気を付けてね」と妙に優しい言葉をかけてくれたのだった(恐〜)。(つづく)