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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-03-07-Monday カンニング2

京都大学の入試で

携帯電話を使ったカンンングをした、浪人生が逮捕された。

複数犯かと思ったら、これまでの供述では単独犯だという。まったく携帯メールが使えない身としては、ものすごいスピードで携帯メールを打てるのだと感心してしまった。新聞によると早く打つ練習をしていたと書いてあったが、そんな時間があったら勉強しろよ!

匿名性が高いと思っていた携帯やPCも、警察がその気になったら、簡単に割り出せるのだなぁということが分かった。

カンニングというのは、おそらくこの世の中に試験というものが出来た瞬間から存在したものだろう。

試験を出す側と、受ける側のばかし合いみたいなものかもしれない。

五十歩百歩というか、目くそ耳くそというか、そんな類の比較でしかないが、カンニングにも罪が深いものと可愛げなものとがある。

今回の入試の様に「合格定員」が決まっている様な試験でのカンニングは罪が深い方だ。何故なら、カンニングという不正をして合格した人の代わりに、真面目に受験して不合格になった人間が存在するかもしれないということだからだ。真面目に受験した人間が落ちて、不正を働いた人間が合格するというのは不条理極まりないことである。

一方、入学した後の進級や中間・期末などの試験は、合格定員というものがないから、カンニングという不正をして合格点を取っても、誰も困らない。まぁ真面目に試験を受けて低い点数しかとれなかった人間が不満に思う程度(?)だろう。

カンニングは見つかったら「零点」というのが不文律だろう。いくらバカでも試験を受けたら零点ということはあるまいに、それだけのリスクを犯してカンニングに挑むというのも、学生時代の悪戯的な要素としてまぁ理解出来なくはない。

だが、面白半分にやるカンニングと、韓国で起きた事件の様に組織的に行うのとでは、これまた意味が違う。

昔のカンニングは、カンニングペーパーを作成している内に覚えてしまうという効果もあったが、答えを携帯電話やコンピュータを使って、他人に依存するというのも今時の方法だよなぁ〜。

カンニングという行為そのものよりも、こちらへの変化の方を憂えてしまう。

可愛げがある犯罪というのは、そもそも無いのだろうけれど、笑って許せる程度というものがあるのも人間の人情というものだろう。

カンニングは確かに悪いことだが、今回の京都大学の対応を見ると、試験を出す側の度量も小さくなっているように感じる。