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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-03-30-Wednesday 原発不要論

福島第一原発の

状況は全く良くなる兆候を見せずに、日々悪化の一途をたどっている様に感じる。

気になるのは、大震災直後は聞かれなかった「原発必要論」がここ2〜3日、識者と云われている人たちから出始めてることだ。

曰く、「地球環境論から言っても、CO2の排出量が少ない原発は必要だ」とか「日本の電力需要を考えたら原発無しでは日本国が成り立たない」とかの発言である。

東電の「計画停電」騒動を言ってのことだろう。このままでは企業が日本からドンドン脱出してしまうと言う。

でも、この計画停電って何かおかしくないか?

原発が無くなると、これだけ一般生活も不便になるんだゾ、だから原発は必要なんだゾとアピールでもしているのだろうか?

どうして、政府は非常事態宣言を発令しないのだろうか?

石油の備蓄もサッサと出せば、自家発電装置を所有している企業や病院に、こんなに混乱は起こさせないのではないだろうか?

なぜだか、未だに東京電力任せにしていることに大いに疑問を感じる。

それに、この狭い日本なのに東日本と西日本で電気の周波数が異なることにも疑問がある。原発がどうのこうの言う前に、周波数の統一でもやった方が良いのではないか?

それとも、政府は福島第一原発の状況がもっともっと酷くなることを想定していて、それに備えて、まだ非常事態宣言を出さずにいるのかと勘ぐってしまう。

識者は「原発は絶対安全だ!」と言っていたのではなかったか?

その原発が、現に東日本を壊滅させるかもしれない事故を引き起こした。1000年に一度の、想定外の大地震だったと云い訳しているが、一度、事故が起きたら人間の手でコントロールすることが難しい原子力を、しかも放射能を漏出させたら、近隣(半径100㌔程)までが風評被害も含めて何等かの被害を長期間受けるものを、絶対安全とは絶対に言えないだろう。現実に起きているのだから。

福島第一原発では、地震の震度の想定も震度5と低かった様だし、津波の高さの想定も低かった様だ。二重三重に対策を取っていたと云うが、結局は何の役にも立たなかったではないか。電気を作り出す場所で自家発電出来ずに原子炉を冷却できなかったなんて、笑い話以前の問題だ。

政府や学者や東電による人災という側面も見逃せない、万が一の事態が起こったというが、1000年に一度なら「万が一」ではなく10分の一の「千が一」ではないか。

想定を高めにすれば問題ないと言うが、それなら何故、これまでの想定が低かったのだ?

何か問題が起きてから、それに合わせて想定基準を高めても、原発事故は起きてからでは遅いのだ。

日本人は未だに「言霊(ことだま)」に支配されている。最悪の事態を口にしたら、それが現実化したらどうするのだと心配している。これはオカルトだ。この考え方はまったく逆だろう。最悪の事態を想定して、それが起こったらどうするかを考えなければ意味がない。最悪の事態を想定しておいたなら、それよりも軽微な事態が起きても対処できるが、軽微な事態しか想定していなくて、今回の様にそれを越えた事態が起きたらアタフタする。これの繰り返しではないか。

何度もこのブログに「便利さは不可逆性があるから、一旦享受した便利さを人間は手放せない」と書いているが、まさに、現代は電気無しでの生活は考えられない。

しかし、だからと言って、原発の事故が起きたら、今回の様に原発の近隣地域は壊滅的な状況になることが実際に起こった以上、原発不要論が出て来ることは必然だろう。

代替のエネルギーが無いのは分かる。風力だとか太陽光だとかは発電量が僅かしかないからだ。

しかし、原発は危険だ!

放射能よりもCO2の方が危険な訳は無いではないか。

絶対安全なんて言う輩は、どの面下げて、絶対安全だとほざくのか?

この世の中に「絶対」なんて無い。そういうことを言う奴等を、全員、原発の敷地に住まわせればよいのだ。自分の身は安全な場所に置いておいて、他人に危険を背負わせるなんて人間として最低だ。

東京電力も企業である以上、利益を追求する組織だ。安全性に金を掛け過ぎたら利益が出ないということなのだろう。そのような組織に原子力という危険なものを任せるなら、国がしっかりと管理しなければならないのに、今回の事故で分かったことは、国と東電と御用学者のナァナァ体質だ。

日本人は、「便利さ」というものを考え直すべきだろう。

過剰な便利さは人間を不幸にする。

そもそも便利さは人間を幸福にする為に考えだされてきたものだ。それが、便利さの過剰な追求は人間を不幸にすることが現実になったのだから、ここらで考え方を改める時だろうと思う。