«前の日記(■2011-09-16-Friday) 最新 次の日記(■2011-09-18-Sunday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-09-17-Saturday 日本経済新聞

2011年9月16日日本経済新聞「文化」掲載

「手品本入手あの手この手」ライバルと競争、書店に出回らないお宝も

マジシャンの歴史は長い。約3800年前の古代エジプトで「3人の魔術師がおもちゃのワニを本物に変え、ガチョウの首を切って元に戻した」という記録がある。魔術や呪術が医療や政治の代わりとして機能していたのだろう。

「40年で5千冊集める」

そんな手品に関連する書籍を集めておよそ40年。自らプロのマジシャンを目指した時期もあり、収集した手品本は5千冊。関連する大道芸や催眠術、超能力、手品師を主役にした小説なども含めると8千冊にのぼる。北海道帯広市で商業ビルを経営するかたわら、部屋の一角を解放して最近、収集本の公開を始めた。

手品に興味を持ったのは小学生のとき。札幌に住む8歳上のいとこから、指の間で転がすボールが増えたり減ったりする「シカゴの4つ玉」という手品のタネをもらったのがきっかけだ。すっかり夢中になり、長い休みには札幌に通って百貨店の手品コーナーで様々な手品道具を物色した。

手品本を初めて買ったのもそのころ。最初は子供向けしか入手できず、飽き足らなくなった。専門書をそろえるようになったのは高校生のころから。小遣いが月3000円の当時、出始めた一般向けの手品本は1冊2500円ほどしたが、手品の先生がいない帯広では本で学ぶしかなかった。

「プロを目指すが断念」

その後、東京の大学に進学し、手品サークルでマジック三昧の日々を送る。個人的にジミー忍というマジシャンに弟子入り。まじめにプロを目指したが、師匠やマスコミ関係者を呼んだ年に一度の大舞台で大失敗し、断念した。

帯広に戻って家業のビル経営を継ぎ、趣味で手品本の収集を続けた。仕事や旅行で出かけると必ず古書店に立ち寄った。

集めた中で最も古いのは東京・神田の古書店で入手した「放下筌(せん)」。江戸時代の1746年刊。その中には、4千年も前からあるカップ&ボールが「志な玉の術」、2千年前に中国で生み出されたリンキングリングが「金輪乃曲」という名で出ていて驚いた。

手品の中にはその時の最先端科学を使ったものもあるが、技術が普及すると消えてしまう。江戸本に出ていた2つのマジックはいずれも単純だが、人間の心理を巧みに利用し、現在に至るまで様々なバリエーションを生み出している。シンプルな方が奥深く、長く愛されるのだ。

マジシャンは新しい手品を開発するとタネを解説した本を限定で刊行する。そのため手品本は薄い冊子が多く、昔は粗末な紙でガリ版刷りで出されたものも少なくなかった。

また手品を世に広める大きな力となった力書房の「奇術研究」や東京堂出版の「ザ・マジック」などの雑誌も、一冊一冊は薄いが、それらが思わぬ高値で取引されることもある。

私の知る限り、日本での手品本の本格的な収集家は私を含めて5人。古書店収集では意識しなかったが、近年のネットオークションで相まみえる機会が増えた。互いに持っていない雑誌のバックナンバーが出ると激しい争いになる。カードマジックの「パス」という雑誌がまとめて出たときは、高値になることを予想した相手が察して折れてくれたので、私が入手することができた。

有名なマジシャンが高齢になったり亡くなったりすると、その記録本が限定出版され関係者に配られることもある。これは一般の書店には出回らず、人的ネットワークを通じてしか入手できない。

「師の1千冊譲り受ける」

その中では、松旭斎小天勝こと大喜タマ子が90歳で出した「花の群像」という記録本が思い出深い。日本の奇術は明治期に日米で活躍した松旭斎天一の弟子筋が今に至るまで本流をなしている。天一の愛人で、妖艶なマジックで一世を風靡したのが松旭斎天勝。彼女の関連本や絵はがきなどはたくさん残っているが、小天勝のその記録本には、既存の本にはない舞台裏の話や写真が多数出ていた。

私の師匠だったジミー忍もこの本流の松旭斎天洋門下の一人。後々までお付き合いが続いたが、1996年にがんで亡くなった時、遺品として1千冊の貴重な手品本を譲り受けた。師が晩年に体調を崩したとき、帯広の温泉に招待したことがあり、その折に私のコレクションを見せたことがあったのだ。

師がそのとき、「自分はマジックの博物館をつくるのが夢なんだ。一緒につくろう」とうれしそうに話してくれたのが忘れられない。師の夢みた博物館にはまだ遠いが、本の公開が手品の普及に役立つことを願っている。(さかもと・かずあき=ビル管理会社経営)