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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2012-02-08-Wednesday 師匠 ジミー忍

先日、とあるマジック研究家で

マジシャンの経歴を調べておられる方から、師のジミー忍のことに関して「3回名前を変えたいきさつ」などの質問があったので答えた。私が未亡人の駒田昌子ママから聞いていてメモを残していた内容を基に一部加筆してある。

師のジミー忍は本名を駒田忍(1943.06.26生〜1995.05.11没)といい、享年は満52歳。(先般、このブログに没年を1996年と誤まって書いてしまったが、今回書くにあたって私の手帳を調べたら1995年が正しかった)

1961(昭和36)年頃に高校を卒業して名古屋の名鉄デパートの乗り物売り場(自転車など)に親戚のコネで就職。この売り場の1階下のフロアーに天洋奇術研究所のマジック用品売場があり、そこのディーラーをやっていたのがジミー松浦(本名:松浦康長、後の松浦天海)。

松浦さんのマジックを見ている内にマジックに興味を持つようになり、仕事そっちのけで売場に通うようになった。松浦さんからマジックの宿題を出され、そのタネを自分で考案して松浦さんに見せたところ「方法は異なるが、現象は同じになった。面白い考え方をする奴だ」と認められる。

それが縁で1年後にはデパートを退職して、天洋奇術研究所のディーラーになる。ディーラーは最初が名古屋名鉄デパート、その後大阪近鉄デパートに移る。

1963(昭和39)年頃には東京のテンヨー本社に入社「まじっくすくーる」の執筆にも参加する。1965(昭和41)年頃にテンヨーを退社してプロデビューしジミー忍を名乗る。「ジミー」の芸名は最初にお世話になった松浦さんからもらったそう。

テンヨーの先輩である初代引田天功とは1971年頃から一緒に仕事をするようになっていた。

1979年12月31日に初代引田天功が亡くなった際には、二代目の襲名を朝風まり(現二代目引田天功)と競うが、この時点では引田天功事務所を離れていた朝風まりと森さん(朝風まりの親戚、彼女は芸能人になりたくて森さんを頼って事務所に入った)にはテレビ朝日がバックについて朝風まりに負けることになるが、引田天功の実の父親からマジック界の為に「引田」姓を名乗って欲しいと頼まれ10年間だけお預かりするということで1991年頃から「引田忍」を名乗る。

約束の10年後1991年頃に西城秀樹の所属事務所の天下井(あまがい)社長が、当時流行っていた超常現象を見せることが出来るからと「セイント」姓を日本名で「聖(ひじり)」とすることを提案、天下井社長は高野山に行って「聖」姓を使うことの許可を求めたそうである。

私は1976〜80(昭和51〜55)年の4年間の大学生の時だけジミー師のもとに通った。

4年の秋に帰郷し、父に「プロマジシャンになりたい」と言ったら「バカ野郎」の一言で終わり、以後、東京へは戻してもらえず、プロになるつもりだったから就職活動もしてなかったので、卒業後はそのまま父(平成4年に64歳で死去)の会社に入社し現在に至る。

大学生時代は、ジミー師はあまり仕事をされておらず、マコママと弟子の美地学(みち まなぶ、本名:佐喜真 学)さんが、「ザ・スティング」というチーム名でキャバレーなどを廻って生活費を稼いでいました。私も何度か助手を務めました。

当時の師はいつも自宅でマジックの研究をされていました。私は師が持っていた当時としてはかなり早い時期のビデオ「ソニー製のU−MATIC」という機械でスライディーニやバーノンなどの映像を何度も見ながら研究をしたものだ。

私は大学卒業後(1980年)は帯広に引っ込んでおりましたが、師が「いずみたく」さんらとマジックミュージカル「ザ・マジック」を1980年頃に製作して全国各地の「こども劇場」などを通して公演していて、北海道に公演に来た1981年頃には釧路、帯広、札幌の三か所に同行した。帯広では私の自宅にも寄ってもらって、私のマジック書籍のコレクションを見てもらい、この際に「将来は一緒にマジック博物館を作ろうな」と言われた。

その後、1994年7月の横浜のFISMの際に訪ねたところが体調がすぐれないとのことで、ご夫婦を8月22〜28日まで十勝に招待し療養してもらった。そのお礼にと私の自宅に医者らの友人らを招いて、師のマジックショーを開いている時に「坂モッチャン、左手にパームしている感覚が無いんだ、なんかオカシイよ」と言われましたので、同席していた医者が東京に戻ったら病院に行った方が良いとアドバイス。

帰京後すぐにマコママから「先生に、肺癌と脳腫瘍が見つかった」と泣きながら私に電話してきた。脳腫瘍は手術出来たが、肺癌の方はすでに手遅れの状態。

1994年12月3日に上京し、駒澤大学時代に世話になったメンバーを集めて見舞ったが、本人には告知をしていなかった。

1995年4月28日に危篤を知らせる電話が入り、5月11日に満52歳と云う若さでお亡くなりになった。

文章中「年代」に「頃」を付けているのは、私がマコママにインタヴューした時にもハッキリとした年月が判らず、だいたいこの頃と聞かされたから・・・。

マコママは現在も健在で、去年、お店の「魔法の小箱」にお邪魔した際には、偶然にも八田加寿雄さんからの電話も入りました。一応ママの店の住所を書いておく。「東京都世田谷区船橋1−1−16 鈴木ビル2階 魔法の小箱」

八田さんは私が大学1年生の時にフランスから帰国され世田谷の三軒茶屋近くで飲食店を始められ、そこにジミー師と2人で訪ねたことがありるが、その後、離婚されて現在はタクシー運転手をされておられるとか。