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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2012-02-15-Wednesday 「九丁目の夕日」

2012年2月13日十勝毎日新聞「論壇」欄掲載

「九丁目の夕日」

現在公開中の映画「ALWAYS三丁目の夕日‘64」は小学館の「ビッグコミックオリジナル」誌上で西岸良平さんが描く昭和30年代を舞台にした漫画が原作だが、題名の元になったのは「当時の東京にはまだ高い建物が少なかったので、どんな場所からでも夕日が見えた」からではないだろうか。高度経済成長で高層ビルが建って空が狭くなっていき、夕日が見える場所が少なくなっていったことへのノスタルジーが含まれているのではないかと勝手に想像している。

私は昭和33年に現在の坂本ビルが建っている場所でお産婆さんに取り上げられ、昭和42年の火事で住宅が移転するまではここに住んでいたから、文字通り「町っ子」であったわけだが、昭和36年に藤丸百貨店が西側に建ったために、物心ついたときにはわが家から夕日は見えなくなっていた。

かつて「まちにいく」と表現された西2条南9丁目界隈は、全盛期の昭和40年代には藤丸デパート、サニーデパート、長崎屋、金市館などの大型店が、ファッション関係ではとくら、シノカワ、ワシントン靴店、お菓子では帯広千秋庵(現六花亭)があったりして、普段着からちょっと「おしゃれ」な服に着替えて来るハレの場所であり、東京でいうところの「銀座」のような存在であったわけだ。

当時の商家には住み込みの従業員が居るのは当たり前のことであったし、新しモノ好きの父が早くにカラーテレビを購入したことや、駅に近かったこともあって、汽車に乗る前後にわが家を待合所みたいに使う人たちが大勢出入りしたものだった。幼心にもわが家の食卓には毎日のように他人が同席していたという記憶があるが、いつも他人がゴチャゴチャと居た家だった。つまり、当時の「まち」は、買い物をする人間だけが集まる場所ではなかったということだ。

最近、帯広ではビルが次々と取り壊されて、逆に視界がドンドンと開けている。向かいにあった旧藤丸百貨店(旧北洋銀行ビル)も先ごろ解体されて半世紀ぶりに景色が一変してしまった。かつての「まち」9丁目西街区の約7割が空き地になってしまった。

西2条南9丁目は帯広市で一番、固定資産税が高い場所でもある。高度利用をせずに更地にしておくのは何ともモッタイナイ。

昔のように、用事がなくても「まち」に来ておしゃべりを楽しむ、他人が同じ食卓でご飯を食べる。そんな濃密なコミュニケーションを復活させることにヒントが隠されているのではないかと考えている。