«前の日記(■2013-07-25-Thursday) 最新 次の日記(■2013-07-27-Saturday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2013-07-26-Friday 大道芸

今年の大道芸フェスティバルの

会議が24日十勝毎日新聞社で開催された。

今年も超一流のパフォーマー9組が参加してくれる。大道芸はすっかり帯広の「平原まつり」において夏の風物詩に定着したようである。

大道芸は、もともとは「北の屋台」から始まった事業である。

私は「北の屋台」をオープンさせる2年前(1999年)から、世界中の屋台の研究を始めた。神田の古書店を巡って文献をかき集め、私なりの屋台理論を構築したのだ。その甲斐あって「北の屋台読本」という本を北の屋台がオープンする日の2001年7月29日に合わせて出版もしたほどなのである。

私は、屋台には大きく分けて3つの部門があると考えた。「飲食」・「物販」・「パフォーマンス」の3部門である。

北の屋台がオープンした2001年は「飲食」部門の屋台に力を入れ、現在の「北の屋台」の隆盛の基礎を築いた。

翌年の2002年からは「物販」部門と「パフォーマンス」部門にも力を入れて総合的な屋台村の実現を図ったのである。

「物販」部門は物販専用の屋台を業者に発注して3台製作した。北の屋台の中央にある広場で、その物販用の屋台を使ってアクセサリーや野菜などの販売を仕掛けたのである。

「パフォーマンス」部門には、似顔絵・射的やスマートボール等のゲーム・占い・音楽・芸能などが含まれる。

この内の芸能関係に含まれる「大道芸」は2002年8月に私のマジック関係の知人から紹介された「クリスピークリス&キャプテンけーぼー(現:ファニーボーンズ)」のたった一組から始まったのであった。

元来、「屋台」と「大道芸」とは深い関係にある。日本では「バナナのたたき売り」や「ガマの油売り」などは「大道芸」の一部門であると同時に「屋台」そのものでもあるのだ。

「屋台」や「マジック」を研究していた私が「大道芸」にも興味を持つのは必然の流れであったと言える。

以来、大道芸は年を追うごとに大きくなっていき、現在の「北の大地de大道芸フェスティバル」へと発展していき、北の屋台からは2004年に独立して実行委員会組織へとなったのであった。

私が北の屋台を卒業する2007年3月までは、「北の屋台」では大阪の東西屋さんという日本一になった「チンドン屋」さん5名を招いて街中を練り歩いたり、北の屋台の中央広場で演奏してもらったり、世界一のマジシャンである島田晴夫師らを招いてショーを開催したりと毎年、毎年、趣向を凝らして超一流のパフォーマーを招き「パフォーマンス」部門の充実を図っていた。

北の屋台の中央広場では、音楽系の大道芸人とチンドン屋さんのコラボレーションと云う帯広でしか見られない催しもおこなったのであった。

当然ながら、費用も膨大に掛かる。

パフォーマーの旅費代やギャラだけでも相当な金額が必要になるからだ。

当時の北の屋台では、家賃以外に店主の方々から「宣伝広告費」という名目で毎月2万円を集めていた。20軒の屋台があるから年間約5百万円という金額になる。

この「広告宣伝費」を使って「パフォーマンス」部門の経費を賄い、北の屋台は楽しい所だと云うを宣伝と市民に対する還元をしてしていたというわけなのだ。

「大道芸」が実行委員会組織の「北の大地de大道芸フェスティバル」になったのは2004年であるから、それまでは北の屋台が全費用を負担して大道芸を運営していたという訳である。

ちなみに現在、北の屋台が「北の大地de大道芸フェスティバル」に協賛として名を連ねているのは、この時の流れからであり、現在は金銭的にも「北の大地de大道芸フェスティバル」にはまったく関わっていないが名前だけは残っているのである。

私が北の屋台を辞めてからは、こう云ったパフォーマンスはまったく行われなくなってしまった。

北の屋台は「飲食」の屋台という一色になってしまった感がある。

もちろん飲食も楽しいが、「パフォーマンス」という部門も充実させれば、もっともっと楽しい場所になると思う。是非、新しく企画を立ててもらいたいものだ。