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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2014-03-12-Wednesday 死について

東日本大震災の特集番組を

見ていて「死」について考えさせられた。

私はこれまで「死」と云うものは、この世に生きとし生けるもの全てが免れることなく負うもので、早いか遅いかだけで、いずれは全て死ぬものだからと簡単に考えていた。

基本的にはこの考え方は変わってはいないが、東日本大震災のように、ある日突然に天災によって死んだ場合のことを考えるようになったのである。

この世に生をうけた人は必ず死ぬのであるから、では、人としていかなる死に方が一番幸せなのだろうか?ということである。

この場合、本人にとっての一番幸せな死に方と、家族にとっての一番幸せな死に方は異なるのではないだろうか思うのだ。

私が考える私の一番幸せな死に方は、もしも可能であるならば、何年何月何日の何時に死ぬのかが事前に分かっていること、その直前にお風呂に入って身体をキレイにしてから自宅のベッドに入り、苦しまずに心臓発作でウッと言って一瞬で死ぬのが理想的な死に方である。

死ぬまでに、思い残したことをやったり、人生の後片付けをやっておいたりしてから死ぬのが理想である。死の直前まで健康でコロリと死ぬ。いわゆる「ぴんぴんコロリ」というやつである。

おそらく、この希望は多くの人が賛同してくれるのではないかと思うが、中には怖いから死を予感したくないと云う人も居るであろう。

しかし、本人も周りの人も死ぬ時期を事前に知っているのが理想だろうと考える。

これに近くて遠いのが、心臓麻痺などで急死する人とその家族の対応であろう。

私は、自分の父親が64歳、祖父が67歳で死んでいるから自分の寿命も70歳からせいぜい生きても75歳くらいが限度だと常々考えている。

70歳過ぎたら何時死んでも良いと考えているが、日本人の平均寿命よりは遥かに短い。人生は長く生きれば良いってもんでもないだろう。

まぁ、一般的には日本人の男性なら80歳過ぎた死なら文句は少ないだろうと思う。

80歳過ぎて、ある日突然に家族団欒の時に心臓発作でウッとなって救急車で病院に運ばれたが治療するまでもなく亡くなったと仮定しよう。この場合なら本人は苦しまずに死ねるから死んだ本人にとっては良い死に方ではないかと思う。

(私はまだ死んだことがないので本当に本人が良いと思っているかは想像でしかないが・・・)

しかし、遺族にとっては呆気ない死に方をされると心の整理がなかなか着きにくい様なのである。遺族にとっての理想の死に方は心臓発作の後1〜2週間ほど入院して、その間献身的に看病をした後に安らかに亡くなるのが良いらしいのだ。

死者の為に一生懸命に看病したと云う自分自身の心の満足、端的に言えば自己満足が欲しいのである。

しかし・・・。

この看病が2年から3年と続いていくと、今度は生きて生活している家族の方が苦しくなってくる。いわゆる看病疲れと云うやつだ。

家族は費用も時間も体力も消耗することになる。いつ終わるかという期間もみえないのが精神的にもつらくなる。

看病していたら、いずれ回復して元気になる希望があるなら良いが、ただ死ぬのを遅らせるだけというのが一番つらいだろう。

一旦延命処置を施したら、今度はそれを外したら「殺人」になるという法律も如何なものだろうか?

今現在でさえ、少子高齢化で病院は老人で一杯である。それを支える若者の数は圧倒的に少ない。年金だって現行制度は破綻することは明らかであろう。団塊の世代という戦後の昭和21年以後数年生まれ(現在68歳以下)の人口が偏っている世代が老人になったら・・・。想像するだに恐ろしい。

日本人は「死」について語ることをタブー視してやしないだろうか?

後数年で爆発的に老人が増え、それを支える若者は少ない。タブー視をやめてもっと真剣に考える必要があるだろう。

SF映画にもあったが、安楽死を真剣に考える時代が来ているのかもしれない。

しかし、世の中には、寿命をまっとうする人もいれば、天災や事故などに巻き込まれて亡くなる方もいる。

理不尽な死に方を嘆く遺族も大勢いるだろう。しかし、「死」は誰にでもいずれはやってくる宿命だ。

生きて居る者は踏ん切りをつけて生きなければならない。早世した人の分までも懸命生きることしか報いる術はないと思う。