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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2014-10-13-Monday 掲載忘れ

2014年8月7日(木)十勝毎日新聞掲載

「北の大地de大道芸フェスティバル」                

全国で大道芸が盛んだ。静岡市の「大道芸ワールドカップin静岡」、横浜の「野毛大道芸」、東京三軒茶屋の「三茶で大道芸」、名古屋大須の「大須大道町人祭」などが有名であるが、なぜに大道芸が盛んなのかを検証してみたい。

古代ローマの「パンとサーカス」が象徴するように、庶民の娯楽として芸能事が活用されていた。パンで腹を満たし、芸能を供することで平和を保っていたのである。

人間はただ働くだけでは疲れる。息抜きは人生の栄養剤でもあったわけだ。

日本に大道芸が伝わったのは飛鳥時代だといわれている。飛鳥時代といえば(現代では存在が疑問視されているが)聖徳太子の時代であるが、シルクロードを伝って唐から日本に伝えられたようである。学生の頃に習った日本史では大化の改新(乙巳の変)が645年であるからおよそ1370年前である。

奈良の東大寺の正倉院の宝物の中に「漆絵弾弓の図」という散楽曲技を描いたものがある。散楽というのは「曲芸、手品、幻術、戯劇などの芸術を音楽伴奏に合わせておこなうこと」であり、両手を広げてバランスをとりながら踏ん張っている男の頭上に長い竿(さお)を立て、その竿の上に数人の人間が登っている絵が描かれている。

これは現代のサーカスにもある軽業で、その周りには太鼓や笛や竪琴を鳴らす者がおり、それを見ている観客が大勢描かれていて、これはまさに大道芸そのものだ。

この散楽からやがて能や歌舞伎や手品などに枝分かれしていくのが日本の芸能の起源であるとされている。サーカスは明治時代初期に欧米から入ってきたと思っている人が多いが、実は1300年以上も前に別なルート(シルクロード)から入って来て独自の発展を遂げていたのである。

江戸時代には、大衆芸能として発展した歌舞伎や見世物などには常設小屋ができてくるが、天下の往来で芸を見せる者たちの方が多かった。江戸時代の商いは屋台に象徴されるような「簡易店舗」が多く、しかも「ガマの油売り」のように商売だか芸能だか判然としないものが多い。物を売るためには客を集める必要がある。客を集めるためには何か面白いことをやって注目を集めなければならない。この商いのやり方が、やがてフーテンの寅さんに代表される香具師(やし)になっていく。

大道商いは芸を見せて客を集めて物を売るが、客は物を買わない限りお金を払う必要がない。これが日本では大道芸の見方になってしまったようである。

大道芸には小屋が無い。入場料というものがないから芸を見せて「投げ銭」を集めて生活をしている。だから芸に感動したらドンドンと投げ銭を払ってあげて欲しい。

今年の平原まつりは5年に一度の阿波踊りの年で、最終16日は大道芸の会場が少なくなってしまう。そこで今年は試験的に最終日の会場に「とかちプラザ」を使用してみることにした。まつり会場からは若干離れた場所になるが、ぜひ足を運んでもらいたいと思う。