私達の若かりし頃と大幅に変化をしていると云う。
今日、我が社を訪ねて来た方が嘆いていた。
飲食店チェーンの会社のトップの人物だが、その人が言うには「最近の若者は酒を飲まなくなった。自分達が若い頃も金は無かったが、それでも毎晩、毎晩、飲み歩いていたものだが・・・」と言うのである。
「最近の若者は、お酒も飲まない、車もいらない、ゴルフもしない、マージャンもしない、携帯でゲームしかやらないんじゃぁないだろうか」と言うのである。
その傾向は、私達のすぐ下の世代から徐々に現われていたように思う。私の後輩はほとんどマージャンをやらなかったが、それでも酒は飲んだし、車も欲しがった。
何故だろうかと分析してみた。
私達、昭和30年代生まれの者は、高度経済成長の真っただ中で育った。何となくだが「昨日よりも今日、今日よりも明日の方が明るい未来が待っている」と言う漠然とした期待感があったように思う。
電化製品も、白黒テレビ、冷蔵庫が普及し始め、それを買い揃えると云う楽しみが家庭にもあったのではないか。昭和39年の東京オリンピックの時代を描いた映画「三丁目の夕日」では、テレビが家庭に来るのが待ち遠しいと云う時代であった。
人口も増加していた時代であったし、車も普及してステータスになり、「いつかはクラウン」というように地位や収入によって車の格を上げるような商品であった。
それが、現代はどうであろう。
人口は減り続けている。2040年には北海道の人口は120万人が減るとの予想が発表されている。
経済も右肩下がりで、「昨日よりも今日、今日よりも明日が不安」と言う先に期待が持てない時代になった。漠然とした不安感が世間に漂っている。
景気は正に「気」である。こんな気分の中で消費しろって云う方がオカシイだろう。
おまけに、モノはもう家庭の中に溢れている。1部屋に1台のカラーテレビ、一人1台の車、冷蔵庫、クーラー、無いものはないという程、モノが揃ってしまった。
もはや買い替えくらいしか需要はない。メーカーがモデルチェンジしたところで、この社会の暗〜い雰囲気では消費に金を使うよりも、もしもに備えて貯めて置こうというのもうなずける。
ようは、政治の貧困なのだ。
小泉首相を国民は支持したが、彼が推進した政治は、格差社会の容認でしかない。
彼がモデルにしたアメリカは1%の金持ちが70%以上の収入を得ている滅茶苦茶な国である。
1%の金持ちのおこぼれで生活する社会が正しいのか?
1億総中流社会のどこが悪いのだろう。
私は、これまで何度も人口減少社会への意識改革をしなければいけないと警告してきたが、今頃になってあわてている有様である。
まだ、ギリギリ間に合うかもしれない。
頭の切り替えをしなければならないのだ。
若者たちは敏感に肌で感じて、消費しない生活をしているのかもしれないなぁ〜。