教えている生徒は全員が70歳以上の老人である。
ここ3ヶ月間は「カップ&ボール」と云う3つのコップと玉を使った世界最古の4000年の歴史のあるマジックと言われているモノである。
以前に私が実演したのを見て、是非、そのマジックを習得したいと言うので教えているのであるが・・・、
4000年も続いていて、現在でも盛んに演じられているのは、人間の錯覚や思い込みを利用した単純な現象のマジックであるからだ。
科学を使ったマジックは、その科学現象が世に広まってしまうとマジックとしては成立しなくなってしまう。例えば、昭和30年代にソ連のボリショイサーカスのマジシャンのキオは、カメラで観客を撮影し、数分後にその観客にプリントした写真を手渡すと云うマジックを行ない、一世を風靡したことがある。
何のことはない、ただのインスタントカメラだったのだが、まだその当時は写真は暗室でフィルムを現像し、印画紙に焼き付けてプリントしていたから、撮影からプリントまではかなり時間が掛かるのが常識であった訳だ。
しかし、ポラロイド社がインスタントカメラを発売して、その原理が世界に拡がると、キオのカメラのマジックは不思議でも何でもなくなってしまったのである。
しかし、一方で人間心理を巧みに使った「カップ&ボール」のようなマジックは4000年も続いていて、まだ現在でも新作が生まれるほどの人気のあるマジックなのである。
私が小学生の時に、テンヨーと云うマジック用品をデパートなどで販売する会社が「悟空の玉」という名称でこの「カップ&ボール」を子供向けに販売していたのを買って来た。たしか当時は300円程度の値段であった。解説書にはカップの底を玉が貫通するという手順しか載っていないものであった。
小学生の手にしても、カップが小さ過ぎてその他の手順には向いていない商品であったが、原理の面白さは伝わってきた。
高校生の時に大枚5000円もはたいて金属製のカップ&ボールを買ったが、カップにも玉にも仕掛けは無かった。
現在なら100円ショップで500円出せば揃えられる品物であった。
だが、単純なマジックにはテクニックが必要になってくる。当時の帯広にはこのマジックを教えられる人は居なかった。
金沢文庫と云う会社から「クロースアップマジック(松田道弘著」と云うやや玄人向けのマジック解説本が出た。この中にカップ&ボールの手順が載っていたのでそれを必死で覚えたのだった。
壁に向かって座り、壁には鏡を立て懸ける。足で本を押さえて読みながら、鏡に映った自分の手を見ながら練習したのである。
高校生当時はそんなことをやって覚えたものだった。
10代の若い時に自分で苦労して覚えたマジックはなかなか忘れないものだ。演習していなくても今でも身体が覚えていて勝手に動いてくれるのだ。ただ、昔の様に上手くは演じられないが、若い頃よりもズーズ—しくなっている分、ゴマかすのは上手くなっている。
老人の生徒に教えていて、70歳過ぎの人には、結構難しいマジックであるかもしれないと思えるようになった。
単純なだけに、逆に手順が混乱してしまうのだろう。手順にストーリーを作って分かり易いように工夫したのだが、どうも途中でこんがらがってしまうようだ。
その「カップ&ボール」も12月の2回で完成させようと思っているのだが、生徒の一人が、今度12月にマジックの出演を頼まれたので個人レッスンを付けて欲しいと言う。
まだ途中のカップ&ボールの演技ではなく、以前から持っているマジックで15分間の演技を構成したいという。
中途半端にやるのは性に合わないが、生徒さんからの頼みであるので引き受けたのであった。
自分の持っているマジック道具を一杯抱えて教室にやってきたのであるが・・・、
構成を考えるだけで結局1日が終わってしまった。その構成したマジックを家で練習して来て下さい。次は2週間後ですよ。と念を押して帰したのだが・・・。
今日、レッスンをしてみると、忙しくて練習が出来なかったと言う。「・・・」
家でまったく練習もしないで、教室でだけ教わって、そのまま本番に掛けるなんてマジックを冒涜しているし、練習して来なければ先に進まないのだから、自分の時間を割いて教えている私に対しても失礼だろう。
教えるのが嫌になってしまった一日であった。