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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2014-12-09-Tuesday 坂本勝玉堂

2014年12月8日付十勝毎日新聞「論壇」掲載文

「坂本勝玉堂と十勝石」

帯広開拓の始まりを「晩成社」が入った1883(明治16)年とすると、来年で132年。

わが社の前身「坂本勝玉堂(しょうぎょくどう)」は祖父の勝(かつ)(1886—1953)が池田町利別で創業して111年、帯広に移ってからは110年になる。

勝の生家は山梨県北巨摩。農業を営んでいたが、水晶加工や印鑑を彫る技術習得のために甲府に通っていた。ある時、その店に北海道から藁筵(わらむしろ)いっぱいに入った黒曜石が届いた。石器に使われた石だ。

「北海道の十勝という所には、この石がゴロゴロとそこら辺りに転がっている」。その話を聞き、1901年に十勝に下見に入った。

生まれ育ったのは山間の村。十勝平野の広大さに心を奪われ、自分の名前が入った地名に縁を感じて移住を決断した。

最初に入ったのは川の合流点で栄えていた池田町利別。1906年末の人口は利別(凋寒村)7165人、帯広4249人。

同郷の金物屋「カネヨ佐藤喜与丸商店」に寄宿の約束を取り付け、いったん山梨に戻り、2年後に移住した。1904年、18歳で中川郡凋寒村字利別太大通に印判店「坂本勝玉堂」を開業した。

翌05年の鉄道釧路線の帯広開通に合わせ、当時の帯広町西2南4に店舗を移転、印鑑以外にも十勝石細工品の商売も始めた。

黒曜石は欠けやすく、印材としては不適格。そこで達磨(だるま)、風鎮、硯(すずり)などに加工し、全国各地に出向いては十勝石の普及に努めた。

「十勝達磨」は勝が考案した。「十勝」は全勝に通じ、達磨は「七転び八起」。2つの良い意味が重なり合うと考えた。

自然石をそのまま使い、達磨の顔を彫った素朴な置物だが、当時の大ヒット商品になった。売れる物には”ニセモノ”が出回るのは昔からの常。十勝達磨にはニセモノが氾濫したため、当時としては珍しい商標登録を行なったが効果はなかった。

「十勝達磨」は自然物で作った玩具として、山口県の「岩国石人形」、鹿児島県「鈴懸け馬」とともに「日本三大珍品玩具」に指定された。

皇太子(後の大正天皇)が1911年9月に行啓された折、お買い求めになった十勝石細工品の硯2面、兎文鎮2個を謹製したのも勝である

1924年ごろに前河西支庁長、諏訪鹿三の住宅があった西2南9の土地を購入。1925年に借家住まいに決別し、石造り2階建てのモダンな店舗を建てて移転した。十勝石細工、印鑑、カレンダー、団扇、タオルなどを手掛けた。印鑑部門では内弟子を育て、高田東洋堂・斉藤有巧堂・石原印房などが坂本勝玉堂から巣立っていった。