«前の日記(■2014-12-09-Tuesday) 最新 次の日記(■2014-12-11-Thursday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2014-12-10-Wednesday 補足

8日の勝毎「論壇」に載った「坂本勝玉堂と十勝石」

を読んだ読者の方々数名から電話を頂いた。「イヤァ〜とても懐かしくなって」と言う祖父を知っている方や「いつもの貴方の文章とは一寸違っていて時系列を追っただけの文章だったが、でも面白かったよ」など等である。

祖父を実際に知っている方からは「おじいさんの本名は『まさる』と呼ぶのかと思っていたよ」との指摘もあった。

古い戸籍謄本には名前にふりがなが入っていないから、本当の本名の読み方までは分からないが、祖父が『かつ』と呼ばれることを望んでいたという祖母の言から採用したものだ。通称は『かつ』で通っていたからまぁこれで良いだろう。

110年の歴史を「論壇」の字数制限の1000字で書くのは、そもそも無理がある。たった1000字と云う字数では、時系列を辿って書くくらいしか出来ないから、面白いエピソードがたくさんあるのに、それを入れる字数の余裕がないので、結果的につまらない文章になってしまったと反省している。

来年4月中旬発刊を目指して、現在編集中の「創業111年記念誌」の中に詳しく書く予定なのでそれを楽しみにしてもらいたいと伝えておいたが、その他の読者の為にここで若干の補足をしておこう。

祖父の勝(かつ)が帯広に入ったのは、依田勉三の晩成社から遅れること、わずか22年でしかない。

依田勉三が入植した当時は一面の柏林であったろうから、人などほとんど居なかったであろう。勉三の入植から23年後でも帯広町の人口は4249人にしか過ぎない。祖父はこの子供も含めての4249人を相手にして印鑑が一体どれくらい売れると判断したのであろうか?当時の帯広でハンコは必需品だったのだろうか?

農業なら自給自足を目指すということもあるだろうから、自分で作った農作物を自分で食べて凌ぐことができるが、ハンコは腹の足しにはならない。ハンコ屋でハンコが売れなければ一体どうやって生活するつもりだったのか。単に無謀なだけであったのか、それとも夢想家だったのだろうか?

私が大学を卒業してすぐに、父と二人で山梨の祖父の生家を探し当てて訪ねたことがあった。坂本本家の一人息子であった祖父が北海道に行ってしまったから、祖父の両親は仕方なく分家の坂本家から養子を取ったのである。その坂本家は現在でも農業をして続いている。

訪ねた当時、その養子に入った人は既に故人であったが、その妻が存命であった。その人が言うには、祖父は十勝への移住資金にする為に、実家の田畑を勝手に売り払って行ったトンデモナイ奴だと言う。

残された両親と夫は土地が少なくなってとても苦労したのだそうだ。

どうやら祖父はさすがに土地を全部は売らなかったようであるが・・・。祖父がどれくらいの土地を売って、どれくらいの金を得たのかは分からないが、ハンコが売れなくても生活出来る金額を懐にして来たのであろうなぁ〜。そうでなければハンコ屋で十勝で生計を立てようなんて無茶そのものであるからだ。

まぁ、立場が違えば見方も変わるということにしておこう。父は恐縮して祖父が掛けた迷惑料として、いくばくかの金銭を置いてきたのだった。

明治の30年代に売り払う土地があったということは小作農家ではなかったということであろう。本家の坂本家の近所にはずらりと坂本姓の家があったが、本家の家紋は「左三つ巴」で、分家の坂本家の家紋は「右三つ巴」なのである。祖父はこういう堅苦しい古い風習などが残っているところが嫌だったのかもしれないなぁ〜。自分の名前が入った広大な土地に魅了され、十勝に新しい可能性を感じたのだろう。

そんな祖父が居たから、現在の私が居る。私も祖父のDNAを受け継いでいるから、時々大胆なことをやるのかもしれない。人間とは面白いものであることよ。