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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2016-02-23-Tuesday テレビとマジック

私がマジックを始めたのは、

小学6年生になる時の春休み(1969年昭和44年4月)に、札幌の8歳上の従兄弟からマジック道具をもらったのがキッカケであった。

テレビ番組でマジックと云うと「初代:引田天功」の「大脱出シリーズ」を思い出す。

木曜日の19:30からの90分枠でやっていた「木曜スペシャル(日本テレビ系)(北海道ではSTV)」で時々放送されていた。

この「木曜スペシャル」は後に「ユリ・ゲラー」のスプーン曲げなんぞも放送するから、私にとっては忘れられない番組である。

この「引田天功大脱出シリーズ」の第1回目は(昭和43)1968年10月の放送で、第2回目は(昭和44)1969年3月の放送と云うことであるから、私がまだマジックを始める前であったので見たと云う記憶がない。

調べてみたら、

①「海中大脱出」が(昭和43)1968年10月、

②「無人カー炎上大脱出」が(昭和44)1969年3月、

③「ジェットコースター大脱出」が(昭和48)1973年3月、

④「死の水道管大脱出」が(昭和48)1973年10月、

⑤「地獄の岩石落とし大脱出」が(昭和49)1974年3月、

⑥「死の火煙塔大脱出」が(昭和50)1975年4月、

⑦「油地獄・水面大炎上」が(昭和50)1975年10月、

の7回の放送であった。

私は、マジックを初めてすぐの時期であったし、中央のマジックの情報がまったく入ってこない北海道の片田舎の高校生であったから、マジシャンって命懸けでスゴイことをやるんだなぁと思っていたが・・・。

8回目の大脱出「死のケーブルカー大脱出(空中ケーブル大脱出)」は(昭和52)1977年2月に企画されていたが、心臓病で入院した引田天功の代役に、当時助手を務めていた朝風まり(2代目:引田天功)が急遽務めて放送された。

私のマジックの師匠はジミー(聖)忍師で、私は(昭和51)1976年3月〜(昭和55)1980年3月までお世話になった。

当時ジミー師は初代引田天功師と一緒に活動をしていたこともあり、私は何度も天功師と一緒の舞台に立っている。

因みに、朝風まりちゃんは、私がジミー忍師に弟子入りした同じ1976年に高校を中退して、親類(母親の従兄弟)である森康明氏(2003年9月10日逝去享年69歳)を頼って引田天功事務所に入っているから、同期ではあるが年齢は私よりも1歳年下である。

最初、彼女はマジシャンになるつもりはなく、芸能界に入りたかっただけだと云う。たまたま親類が引田天功事務所に居たと云う理由で初代との関わりが生まれたのだ。

初代天功師は、彼女を鳩出しの鳩を受け取ったり、ライオンとの入れ替りなどの助手として扱ってはいたが・・・。

一応、歌手としてもデビューはしていたが・・・。

当時、テレビ東京で、天功師、ジミー師、朝風まりちゃんの3人がキャストになって「天功ドッキリ60分」と云うイタズラを仕掛ける番組があったが、ここでも彼女は助手的な扱いでしかなかった。

心臓病で入院した初代天功の代役に若い女性をあてたら、視聴率が稼げると判断したテレビ局側の意向とは云え、そんなマジックの素人を・・・。

そもそも、代役が決まってから本番までに時間が無さ過ぎた。

放送では、まりちゃんが一所懸命に特訓をしている姿を放送していたが・・・。

素人がたかだか数週間の特訓だけで、出来ちゃう大脱出って・・・。

これで、多くの視聴者は大脱出モノにはすっかり興醒めしてしまっただろうなぁ〜。

まだまだ、テレビ局の大掛かりな演出やインチキが良しとされていた時代であったが・・・。

懐かしくも感じる今日この頃である。