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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2017-11-26-Sunday 松旭斎天一の書

日本近代奇術の父と呼ばれる松旭斎天一の

書を入手した記事が以前(2013年)に、新聞にデカデカと載ったことがあったが、24日(金)の十勝毎日新聞にオートマタ(自動人形)「美人手品師(ミッシェル・ベルトラン作)」の記事が掲載された。一番目立つ場所に掲載されたものだから「スゴイですね〜・・・」と皆から言われて一人悦に入っている。

今年の夏にも、松旭斎天一(1853-1912)の別の書の額を入手したことは以前にこのブログにも書いてある。

あまりにも達筆過ぎて、これまで判読不能であったのだが、20日に開催された帯広柏葉高校の同窓会で、先輩の書道家の八重柏冬雷さんに、額を写した写真を渡して、判読して欲しいとお願いをしてあったのだ。

判読してくれて、つい先日、その内容を書いた紙を郵送で自宅に送ってくれたのである。

大きな文字は、私にも「瑞気集門(ずいきしゅうもん)」と判読することが出来た。意味を調べたら「めでたい兆しの気が、あなたの家の玄関先に集まっていますよ」と云う意味であることが分かったのであるが・・・、その後に小さめの字で何やら書いてある。

以前の天一の書から類推して、書いた日付けや場所などが書かれてあるはずだが、まったく読めなかった。この部分の判読をお願いしておいたのだ。

八重柏さんからは「己酉 夏季」「為 黄田君 雅嘱」「旭 天一」と書いてあり、

「己酉(つちのととり)明治42(1909)年」

「為(ため)」とは為書きの「為」、「木田君(きだ くん)」は苗字、「雅嘱(がしょく)とは(頼まれて書いた)の意味」と丁寧に解説して教えてくれたのであった。

押されてある朱の落款印は全部で3つ。一つ目は「瑞気集門」の文字の右上に「松旭斎」の3文字の縦長の落款。

左側の「旭天一」の下に2つの正方形の落款で、上は「古今無比東洋奇術大博士松旭斎天一」の縦横4文字ずつの16文字。下は「服部松旭」の4文字である。

書かれた年(1909年)から判断すると、天一は1912年に59歳で亡くなっているから、晩年の56歳の時の書と云うことになる。

天一の伝記で詳しく調べてみたら、明治42年の天一一座は天一(56歳)・天二(28歳)・天勝(25歳)の三枚看板が揃って全盛を迎えており、天一も円熟味を加えて最も充実していた頃であったとある。

伝記には、この年の8月(夏季)に故郷の福井に2年振り4度目、最後の故郷凱旋興行に来ているとあるから、おそらくこの福井興行の際に書いた書なのではないかと思われる。

松旭斎天一の書は、3点所有しているが、「坐花酔月(ざかすいげつ)」は(甲午きのえうま)明治27(1894)年41歳の時の書。

「誰将螳蜋試軍 当軍之事勝嘆磋 山河百戦只枯骨 功罪千秋空白沙」の掛け軸は庚子(かのえね)明治33(1900)年47歳の時の書だから、3点とも全部異なる年代の書である。

「これでマジック・ミュージアムの展示物は、学術的にも資料的にも充実してきたなぁ〜」とつぶやいたら、隣に居た妻が、ため息をつきながら「仕事もこれくらい熱心にやってくれたらねぇ〜・・・」とつぶやき返したのだった。