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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2018-06-08-Friday オカシナ風潮

近年の日本のメディアには違和感がある。

ついこの前までは、連日連夜「日大アメフトの危険タックル問題」を放送していたが、ここ2,3日は「紀州のドンファン怪死事件」にスポットが移った。

何だか、メディアが国民感情をあらぬ方向に誘導している様にしか思えない。

「水に落ちた犬は叩け!」とばかりに、メディア側が叩く標的を定めて、国民皆が標的にされた人間を叩くと云うような構図である。

まだ、事の白黒、善悪が判明してもいない段階で、メディアが黒、悪と定めた人間を攻撃する構図だ。

これは、甚だヨロシクナイ傾向だ。

かつて、日本国民はメディアに乗せられて、太平洋戦争に突入した。もちろん軍部に問題があったのだが、私は、それ以上に国民を煽ったメディアの責任が大きいと考えている。軍部だって、逆にメディアやメディアに扇動された国民から煽られたということだって少なからずあっただろう。

確かに、日大の監督も、紀州のドンファンの若妻も、アヤシイ存在であることは、たぶんそうなのだろう。だが、何も、日本国中のメディアが連日連夜取り上げるような大問題なのだろうか?

何だか、国民の目を、もっと重要な、そして大問題から逸らす目的で、瑣末な問題を、大問題に仕立て上げているかのように感じてしまう。

以前にも書いたが、人間なんて所詮は人間なのである。神ではない。清廉潔白な完全無欠の人間なんて居ないと断言してもよいであろう。

己の不完全さをさておいて、他人の些少な悪事を大袈裟に取り上げて、あげつらう。

言葉や文章の、言い回し等にケチをつける風潮も嫌いだ。

文章なんてものは、読み手側の人数分だけ解釈の数が存在するものだ。名文と言われる作家の文章だって、解釈は読み手によって異なる。

逆に異なるから面白いのだ。

言い回しに文句があったとて、それは読み手側の主観にしか過ぎない。

自分の主観だけが正義であると思っているから、それ以外のモノを認めない。狭量のなせるワザである。

なぜ、もっと豊かな気持ちで、あぁ、この人の感性はこうなんだな、私とは違うんだなぁと感じられないのだろうか。

言葉狩りの様なことばかりやっていたら、逆説的な表現は今後使えなくなってしまうであろう。それは、日本文化の衰退でしかない。

人には、他人を認める広い心の器が必要であると思う。