「昭和ノスタルジー」の帯広版の取材である。
道内の主だった都市の昭和時代の写真をふんだんに使用して、昭和40〜50年代頃の懐かしい街並みを紹介する本である。
取材に来た記者から「小樽版」を見せてもらったが、A4判240頁で定価2500円の立派な本である。
帯広で何軒かの取材を続けている内に、何人かから「歴史なら坂本和昭が詳しいよ」と聞いたのだと云う。
北の屋台をやる際に、帯広の歴史を詳しく調べたし、父から昔話はよく聞かされていたから同年代の人間の中では詳しいほうであろう。
私は昭和33年1月に、帯広市中心街のド真ん中のド真ん中、西2条9丁目の生まれであるし、昭和43年まではここで生活をしていたから、確かに「街っ子」である。
昭和39年に我が家の向かい側に「藤丸デパート」が開業しているので、デパートで毎日遊んでいたのだから、まさに中心街の隆盛時代を肌で知っている世代である。
昭和42年の11月に火事に遭ってからも、父の会社はそのまま街中にあったが、住宅は駅の南側に移っている。学校の行き帰りには会社に顔を出していたから、街の様子は分かっている。
帯広を離れたのは、昭和51〜55年の大学生時代だけであるし、毎休みには帰省もしていたから、60年間の記憶の蓄積はある。
ただし、昭和42年以降の写真ならば沢山あるのだが、古い写真は火事でアルバムが全部焼けてしまっているから、親類などに送ってあった写真が火事の後で我が家に戻してくれたモノぐらいしか残っていないのである。
まずは、取材の内容を聞いてからと思って、それほど準備もしていなかった。
私が、このブログに書き溜めた「人間万事塞翁が馬」という我が家の歴史や私の自叙伝のコピーファイルを貸したのである。この中には明治時代の祖父の話から載せている。
取材では、祖父の山梨から出て来た話、父のダンスホールの話、私の時代の子供たちの遊び、サニーデパートの話など等、かなり豊富に話したのであった。
ビルの屋上や塔屋から街中を撮影したいと云うので、高所恐怖症を我慢しながら案内をした。
昔のダンスホール坂本会館内の写真が無いですか?というので、自宅に戻って探してみたら数枚が見つかったのだが、昔の写真は人物が中心で室内風景だけを写した写真などはない。
それでも、カメラマンは撮影して行ったのであった。果たしてどんな本になるのやら、今から楽しみである。