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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2018-12-12-Wednesday 怨霊

読者の方から「怨霊」についての質問が多くきた。

2、3日前に高田崇史の小説の話を書いたからであろうが、確か以前にも同様の質問が来て、答えたことがあったと記憶しているが・・・。

こう云うことは、現在はスマホでも簡単に検索することが可能であるはずなのに、何故に私に聞くのだろうか?

私のはただの受け売りなんだけどなぁ〜。

まぁ、簡単に答えることにしよう。

日本の神社には「怨霊」を祀る神社が多い。八百万の神の中には、おとなしい神も、荒ぶる神も、様々な神がいる。

「怨霊」とは何か?

それは、一言で表せば「この世や、人に恨みを抱いて死んでいった人の魂が祟る」もの。

では、なぜに恨みを抱くのか?

多くは無実の罪を被せられて死刑にされたり、流罪にされたりしたことから生じると言ってよいだろう。若しくは騙し討ちなど卑怯な方法で殺されたりしたケースなどもある。

これは、恨みを抱かれたと感じている側の人が、自分は祟られていると思い込むことから始まる。

つまり冤罪を作りだし、抹殺したから、騙した側は常に良心の呵責を感じて負い目を持っている。

そこに天変地異や疫病などが起きると、祟られたと感じてしまうのである。

祟られた(と感じた)側の人間は、圧倒的に藤原氏だ。いかに藤原氏が汚い手を使って権力を手中にしてきたのかと云うことが分かるというものだ。

藤原氏に祟る神で名高いのは、菅原道真(天神様)を祀る天満宮である。道真は讒言に依って、九州の太宰府に左遷され失意の内に死んだから藤原氏に祟る怨霊になったと藤原氏側が思ったのである。

藤原氏が台頭する以前にも多数の怨霊がいる。

古くは、国生みの神であるイザナミノミコトも、夫のイザナキノミコトを恨んで呪って死んでいるから怨霊なのである。

出雲大社の大国主命も怨霊であることをみると「国譲り」というのは騙し討ちだったのであろうなぁ。

では、怨霊を鎮魂するにはどうしたら良いのだろうか?

それは神として祀ることで宥め、鎮めるのである。

だから、日本の神社に祀られている神の中には、多数の怨霊がいるということなのだ。

では、どうやって見分けるのか?

怨霊を祀る神社にはある特徴がある。

神社と云うのは結界であり、怨霊を封じ込める装置なのである。

まずは、参道が直角に折れ曲がっている。

神社の前に川が流れている。その川に掛る橋を渡って参拝する。などである。

何故、直角に曲がっているのかというと、怨霊は直線にしか進めないと信じられているからである。まぁ、ある種の決め事であろう。神社に封じ込められた怨霊は曲がった参道からは外に出る事は出来ないのである。

沖縄の家の門の前にある「石」石敢當(いしがんどう)は、逆に魔が入って来ない様に防ぐものであり、やはり魔は直進しか出来ないというのは共通している。

神社の前を流れる川は、彼岸と此岸とを区切っているもので「あなた(怨霊)が居る場所はあの世ですよ、この世の側には来ないで下さい」と言う意味であるといわれている。

参拝する人は、この川に掛る橋を渡って此岸の現世から彼岸にある神社に参拝に行く。

この例に倣うと、不思議なことに伊勢神宮にも当てはまるのである。そうなると天照大神(アマテラスオオミカミ)も怨霊と云うことになってしまう。アマテラスは男神であるという説もあるし、かなり謎の多い神様なのである。

神社仏閣を回る時に、この法則を知っていると面白い。

神社に祀る以外にも、「能」や「物語」の主人公にして、現実世界では悲惨な目にあわされた人間を、フィクションの世界で活躍させたり、六歌仙の様に和歌が上手いと持ち上げるのも鎮魂になる。これは日本独特の面白い文化である。