「英国で鳩出し通用せず」
当時は鳩(はと)とカードを演じていたが、鳩はまだしもカードは後ろから見られるわけにはいかない。楽団に配布してある譜面は、音楽と演技がピッタリ合うようにあらかじめアレンジしてあった。そのためカードの部分だけをカットするわけにはいかない。仕方なくカードの時には司会者に、演技している後ろ側に立ってもらってカバーした。
「妻の病気で日本に」
サーカスではトレーラーを与えられ自分で運転して移動したが、小さな寝床があるだけでトイレも風呂も付いていない。水は毎日、子どもが売りに来る。日本円で10円か20円程度も渡すとバケツに水をくんで来る。その水で身体を洗うのである。
トイレのない田舎に行くと、穴を掘って用を足したら埋めるだけ、囲いもないところでするのは日本人には耐えられないから、バケツを買ってトレーラーの中で用を足して外に捨てに行く。そんな生活を5カ月も我慢して続けていた。契約期間はまだ1カ月残っていたのだが、我慢の限界に達してワダラハラという街に行った時にサーカスを辞めたのであった。
再度、テアトロ・ブランキータに出演するが、ディアナが腎臓結石を患ってしまった。サーカスでは食事の事情が悪かったので偏食になり、身体にも無理が掛ったのだろう。その痛みを我慢しながら4週間ブランキータの舞台を務めたが、治療のために日本に帰国することにしたのである。
1968年12月にメキシコでの仕事を終えて日本に戻って来た。ディアナの腎臓結石は銀座の病院に半年通って完治した。
日本にいる間は、ナイトクラブやキャバレーなどの仕事をしていたが、海外での仕事をしていたから酔客相手では満足できなかった。そんな時期にシンガポールから仕事のオファーが入ったので、シンガポール、ペナン、マレーシア、バンコクを回ってからヨーロッパに入ることにした。
「仕事なく困窮」
70年、東南アジアからイギリスのロンドンに入り、仕事を求めてエージェントに通うが、オーディションの機会さえもらえない。鳩のアクトは、オーストラリア、メキシコ、日本では一流で通っても、ロンドンでは無名だったのである。鳩出しをやるマジシャンはヨーロッパには掃いて捨てるほどいるから、日本人マジシャンの鳩出しは必要とされなかったのである。
知らない国に行くと、一からの出直しで、いくら腕に自信があっても、相手にしてもらえないということを思い知らされた。
仕事をすることもなく3カ月が過ぎ、東南アジアで得た資金も底を尽きかけてきた。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)
【写真のキャプション】メキシコ、ユニオン・サーカスのオープニングで場内1周(1968年)
2019年4月4日 十勝毎日新聞掲載