「和傘の演技が好評博す」
えんび服で鳩出しをする日本人マジシャンの需要はヨーロッパにはないとエージェントからも言われ、日本人らしいアクトがどうしても必要だと考えた。何か日本的なモノは無いかと中国人が経営する雑貨店に入ったら和傘が売られていたので数本購入したが、この時点では使い道を思い付いたわけではなかった。
とりあえず外人が着るような薄っぺらな着物と剣道のはかまを購入。ディアナが加工した着物とはかまを着て、写真館で宣材写真だけは撮影したが、この時点では傘のアクトはまるでできていなかった。この時まで、着物を着たことすらなかったのだ。
「再びメキシコへ」
ロンドンにいても仕方がないとフランスのパリに行ってみたが、パリではテンヨーの後輩である八田加寿雄が頑張っていたので、日本人マジシャンが2人いてもと考えた。パリでオーストラリア時代に世話になったマジックショップのオーナーと再会。彼がメキシコへの旅費を工面してくれたので、再びメキシコに戻ったのであった。
再度のメキシコでは、打って変って大きな収穫があった。30週(実際には20週でアメリカに行く)にわたるテレビ番組のレギュラー出演が決まり、劇場への出演、おもちゃ会社のコマーシャル出演などの仕事がきて生活が安定した。この時期メキシコではかなりの有名人であった。
「テレビ番組出演」
30週のテレビ出演契約では、毎週異なる演技を要求されたが、15週もすると演目も底をついてきた。そこで、ロンドンで購入した和傘を使って、いろいろな方法で試してみた。傘の頭部を持って出す方法や、連続して出現させるアイデアを思い付き、テレビで演じて好評を博した。このテレビの仕事では、マジシャンのトニー・スライディーニとジャック・ゴールドフィンガーとの出会いという収穫もあった。
アメリカに行きたいとの夢をこの2人に相談したら、ビル・ラーセン(ロサンゼルスのマジック・キャッスルのオーナー)とミルト・ラーセン(ビルの弟)がやっている「It’s Magic!」というショーに出たらよいとのアドバイスをもらい、連絡を取る方法を教えてもらった。
ビルに手紙を出したが、「鳩出しができる」と書いても相手にされないと思い、この時点では未完成ではあったのだが「傘が空中から出現する」と書いて売り込んだ。まだこの種のマジックはアメリカでも存在していない唯一無二のマジックであると思ったからだ。
この売り込みが成功して「It’s Magic!」に出演して欲しいとの返事が来た。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)
【写真のキャプション】2度目のメキシコ。テレビ番組で和傘をプロデュ—ス(1971年)
2019年4月5日 十勝毎日新聞掲載