「火を噴く龍で世界風靡」
1975年、アメリカに帰り、ドラゴン・イリュージョン(D・I)を「It’s Magic!」に掛けた。従来の人体交換マジックは「箱」を使って行うが、D・Iは龍が人にグルグルと巻き付いた状態で入れ替わる。口から火を噴き、暴れ回る龍との戦いは物語性があり、エキゾチックでオリエンタルなアクトとして全世界から絶賛され、一世を風靡(ふうび)したのである。
着物を着て演じる傘のアクトからつながっているD・Iを、もしも日本で完成させようと思ったら、日本舞踊や歌舞伎等の方面から所作などの注意があったかもしれない。日本のものを生かしてはいるが、傘のアクトも龍のアクトもオリジナルな芸で、古典芸能の型にはまるような演技にはしたくなかった。我流であったことが功を奏したという。
「手品界スターに」
88年からラスベガスのリビエラホテルの「スプラッシュ」と言う人気ショーのスペシャルゲストとして5年間、トリを務め、ホテル前に「SHIMADA」の看板が立った。マジック界のみならず、エンターテインメント界においてもスーパースターとなった。「アカデミー・オブ・マジカル・アーツ」が世界一と認定するマジシャンに贈呈する「マジシャン・オブザ・イヤー」(74年)をはじめ、マジック界のメジャーな賞を全て獲得したマジシャンとなる。
97年からはマジックの個人レッスンを始めたが、島田晴夫のキャラクターは唯一無二のもの。島田のマジックを他のマジシャンに伝授しても、伝授されたマジシャンは島田晴夫には成り得ない。マジシャンにはパーソナリティが必要だが、西洋にいる日本人であるということが幸いした。他の西洋人のマジシャンとはおのずから異なっているから、島田の「色」をつくったことになる。
島田はこれまでずっとしゃべらずにマジックを演じて来た。東洋のミステリーを保つためには黙って演じるのが一番だ。口を開いて、妙なアクセントでしゃべったら、その途端に雰囲気が消えてしまうという。マジシャンの中には自分の技術を見せたくて、技術をアピールするための曲芸的な技であるフラリッシュを多用する人がいるが、あれは曲芸と同じようなものでマジックではない。
「感動する演技を」
観客がマジックを見て、「不思議だなぁ」というのはマジックをやっているのだから当たり前、「うまいなぁ」と言われるのもプロなんだから当たり前、「タネが分からなかった」なんて言われるのは論外。観客から素晴らしい、感動したと言われる「アーティスト」になりたいのだという。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)
【写真のキャプション】最初に撮ったドラゴンアクトの宣材写真(1975年)
2019年4月13日 十勝毎日新聞掲載