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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2021-03-30-Tuesday 散り際

今、日本は桜の季節であるからか・・・

先日の私のブログに書いた「桜の散り際の潔さ云々」に関してなのか質問メールが愛読者の方々から複数いただいた。

何故だか大相撲のことではなくて、私の去就に関しての質問であった。

その返答をそれぞれに返すと面倒なのと、その他の方々にも伝えたくなったのでこのブログに返答を書くことにした。

その質問内容を要約すると「(前略)坂本さんが地球環境問題に関心が深くて、国際環境大学構想や十勝環境ラボラトリーの創設などの活動をしていたことはブログを読んで少しは知っています。(中略)現在はSDGsが盛んに言われていますが坂本さんのご意見を伺いたい(後略)」とか「(前略)現在は地球環境問題の重要性を多くの人が認識するに至っているのに何故に坂本さんはその活動を辞めてしまったのですか?(後略)」等の質問が寄せれらたのである。

まずは、質問には専門用語もあったので、まずはその解説からはじめよう「SDGs(エス ディー ジーズ)」とは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)サスティナブル ディベロップメント ゴールズ」の略称。

2015年9月に国連で開かれたサミットで決められた国際社会共通の目標で、2015〜30年までの長期的な開発指針として「17の目標」と「169のターゲット(具体目標)」で構成されている・・・・。

これ以上の説明は長くなってしまうので用語解説に留めて後は自分で調べて・・・。

私が地球環境問題に初めて関心を抱いたのは、1991年に帯広青年会議所(JC)の「都市環境問題委員会」の委員長に就任したのがキッカケであった。委員会名に「環境」の文字が初めて入った委員会であった。

委員会メンバー中最年少の33歳で就任した委員長としては、地球環境問題を詳しく知らなければ、年長者達をリード出来なくて委員会運営がお話にならなくなると猛勉強したのである。

翌92年には「大学問題委員会」に配属になり、地球環境問題を扱う世界唯一の「国際環境大学」を十勝に創ることを提案したのであった。

95年には、この「国際環境大学構想」を発展させるべくプロジェクトチームを編成することになり、その担当副理事長に就任した。

96年には「国際環境大学構想」の実現に向けて「十勝環境ラボラトリー(TKL)」を創設し専務に就任し9つのプロジェクトを推進した。またこのプロジェクトから「北の屋台」が派生し専務理事に就任した。

TKLは2006年12月31日までの10年間、精力的に活動したが解散した。

連動して2007年3月末日には「北の屋台」の専務理事も辞任した。

質問は、この「TKL解散」と「北の屋台専務理事辞任」に関してのものであろうと思う。

端的に言えば意識が20年早過ぎた!ということかな?

それと地球環境問題というのは、深く研究すればするほど、多様な意見があって混乱してくるのである。

特に「地球温暖化」と言われる現象に関してはその疑問は大きい。二酸化炭素原因説などでは特にそれが顕著である。

「二酸化炭素排出権」なるものに大きな疑問を感じた。少々乱暴に解説すると「二酸化炭素を多く排出する権利を金で買えばOK」ということなのである。地球環境が危機的な状態であるとするならば、二酸化炭素の排出量自体を減らさなければまったく意味がないであろうに・・・。それを金で解決しましょうというのである。

金(経済)の問題では無いだろう。これは欺瞞である。偽善であると憤慨したのが端緒であった。

しかし、一番の原因は「北の屋台」の運営方法で、他の幹部連中との意見が合わなかったことである。

当時私は、自ら運営費を稼いで活動する「まちづくり組織」を作ることを理想としていた。当時(2006.3.18)の十勝毎日新聞の文化欄にこの私の意見を寄稿したが「北の屋台」ならばそれが実現可能であったし、私は初めからそのように設計をしていたのであった。

が、しかし・・・、北の屋台から得られる利益を、まちづくり活動の運営費に使うよりも、自分の生活費に充てたいという幹部が出てきたのである。

他の幹部連中も「まちづくりよりも仲間の生活が大事だ」と言い出したのである。大ショックであった。ボランティアで始めた事業ではなかったのか!しかし、多勢に無勢。結局、私は去らざるをえなかったのであった。

自分が作った「北の屋台」は我が子の様に可愛いから、存続させるには、一人だけ意見が異なる私が去るしかなかったのだ。

でも、結局はその時の幹部連中は、その後に発覚した不明朗な会計処理の責任を取って、後に全員が辞任することになってしまった。だから現在の北の屋台には発足当時の人間は誰一人も残って居ない。

人間の散り際、去り際と言うのは難しいものだとつくづく思う。その人の「生き様」が反映されているからだと思う。

人生には「粘り強さ」も「潔さ」も両方が必要なのだが、まさにケースバイケース、時と場合によってどちらを選ぶのかの判断が難しい。