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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2021-05-26-Wednesday 大道芸

昨日のニュースで

去年に続いて、今年も夏まつりである「平原まつり」の中止が決定した。

2002年から毎年、大道芸人を招いて平原まつりで「大道芸フェスティバル」を主催してきたのだが・・・。

本体が中止では、「大道芸フェス」単体での開催は出来ない。

そもそも、大道芸は「密」でなければ盛り上がらない。大道芸人は観客を巧みに誘導してギュギュッと人を集めて盛り上がりを演出している。それをコロナで「三密」はいけない!なんて言われてしまったら、商売あがったりなのである。

コロナ禍が終息して、日本国民が心底からコロナ感染を恐れなくならない限りは、元には戻らないであろうなぁ〜。

日本の政府は、コロナを恐れて文化や経済を殺した!

そのコロナ禍の緊急事態宣言が5月末で解除になる予定であったのが、どうやら延長するつもりであるらしい。

我が「マジック・ミュージアム」も去年の3月からず〜っと閉館したままである。私のヤル気も失せてしまうぞ!

これから、まだしばらくは暇な日々が続くのであろうから、子供の頃の「まち」の様子を思い出して書いていくことにしようと思う。

私はいわゆる「まちっ子」であった。

昭和33(1958)年1月29日に、現在の会社がある帯広市西2条南9丁目16番地でお産婆さんに取り上げられ、昭和42(1967)年11月27日に自宅が火事で全焼するまでの9年間ここで育った。

「西2条通り」は帯広駅前のメインストリートであり、当時は「銀座通り」と呼ばれていた。駅前の南11丁目が銀座1丁目、南10丁目が銀座2丁目、南9丁目が銀座3丁目、南8丁目が銀座4丁目と称していたから、市民には分かり辛くてとても不評であったことから昭和39年には「平原通り」へと名称が変更されたのであった。

因みに仲通りは銀座通りの東側の通りであることから「東銀座通り」と呼ばれていたが、大元の銀座通りが平原通りに名称変更されたことによって「東」の字が取れて「銀座通り」になったのである。蛇足ではあるが東銀座通りの広小路よりも北側は「親不孝通り」と呼ばれていた。

西2条通りを挟んだ向かい側の街区に、昭和36(1961)年に本格的な百貨店の「藤丸デパート」がオープンした。

昭和35年の国勢調査では帯広市の人口は100,915人、それが現在では166,000人に増えてはいるのだが、当時の賑わいの方が、現在とはまったく逆でまるで比較にならないほどすごかったのである。

農家の人たちも、長靴履きや作業着から着替えて、オシャレをして買い物に来たり、家族で藤丸デパートに買い物に来ては昼食にはお子様ランチを食べる。そんな「ハレ」の場所であった。

中心街のド真ん中にあった我が家の近所には、映画館だけでも8軒ほどがあったし、飲食店が多かったから、「まち」には、飲食、ショッピング、エンターテインメントが集まっていた。十勝の住人は平原通りに来ることを「まち」に行くと言っていたのである。

商売で忙しかった両親は子供の面倒などみている暇がないから、お小遣いに10円玉1枚を渡されて、これで遊んできて、晩御飯までには戻って来なさいと言うのである。当時の10円は結構ツカイデがあったのである。

8丁目や10丁目の「連売(廉売)れんばい」(通りの西から東に抜ける、通路に屋根の掛かった店の集合体)の中に駄菓子屋があって、くじ付きの駄菓子やおもちゃ等が買えた。

当時の男の子の遊びと云えば「戦争ごっこ」や「チャンバラごっこ」である。戦争ごっこには、火薬を使った2B弾や銀玉鉄砲などが必需品であった。火薬や銀玉などの消耗品は10円でも買えるのだが、銃などは何日分かのお小遣いを貯めなければ買えない。更に、安い単発銃にするのか、高価な連発式銃にするのか子どもでも考えて悩んだものであった。

我が家の隣には甘栗屋が開店して店主の岩寺さんは10円で2個の甘栗を売ってくれた。10丁目には「みつわや」と云うお菓子屋さんがあって計り売りで、カリン糖やかき餅などのお菓子が袋に結構な量で買えた。

藤丸デパートの地下の食品売場には、回転するディスプレイのキャンディのバラ売りコーナーがあったし、階段の踊り場には、透明な半球状のガラスにジュースが噴水の様に吹き上がって落ちる自動販売機があって珍しかった。10円あれば一日が楽しめたのである。

当時の西2条通りの商店は、私の年齢に近い子供の兄弟姉妹が大勢住んでいた。1歳上の姉の友達や私の同学年生、そして1年下のその弟や妹などの子どもたちである。

友人の家に遊びに行くと、おやつを食べさせてくれるのが楽しみであった。茹でたジャガイモにバターをつけて、飲み物は牛乳という家もあれば、インスタントラーメンの家もあるし、いも餅の家もあった。時には売り物のジュースやアイスキャンディをご馳走になることもあった。

そんな中で、一番の楽しみは三井金物店の倉庫でかくれんぼをして遊ぶ時のおやつであった。千秋庵(現在の六花亭)のお菓子がいつも出されるのである。当時は子供だったから、なぜなのかその理由が分からなかったが、一番のご馳走であった。

西3条南9丁目の2丁分(100m×100m)は裁判所跡地と呼んでいた広い草地であった。

当時の帯広小学校は柏林台に啓西小学校が開校するまでは超マンモス小学校で、私が1・2・3年生までは1学年に11〜12クラスほどもあったのである。

帯広小学校のグランドは南北の2か所があったが、どちらも高学年生が野球などで使うので、低学年生であった私たちは裁判所跡地の原っぱで遊んだのである。

その原っぱには、見世物小屋やサーカスやお化け屋敷などの小屋掛けの興行がよく掛かったものであった。(つづく)