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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2021-05-28-Friday まち

先日のブログで

蛇足で書いた「親不孝通り」に関しての質問があったので答えよう。

「親不孝通り」と云う名称は、全国各地に存在しているから、帯広だけの通リの名称ではない。

昭和33年に「赤線」が廃止されたが、その手の店が多く集まっていた通リだったのではないかなぁと推測される。

因みに「赤線」とは、警察が遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示していたのが語源だと云う。

「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降なのだそうだ。

売春防止法(1956年制定)の完全施行を控えて、1958年3月までに赤線内のカフェーなどが一斉に廃業し、店舗は、バーやスナックや料亭などの飲食店に転向したり、旅館・ラブホテル・公衆浴場 ・アパート・下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなど様々であったと云う。

さて本題の、西2条南9丁目の我が家であるが、当時は16番地、18番地の2戸分の土地を所有していた。

因みに、帯広の街区の1区画はおよそ1.2ヘクタールで、道路をはさんだ2街区からなり、丁目で数え、その区画を20等分して番地とし、この番地の一つ分を1戸分と言っていた。我が家は9丁目の東側街区であるから偶数の番地になる。

祖父の勝(かつ)が創業した「坂本勝玉堂」は、明治38(1905)年に池田町利別から帯広町西2条南5丁目20番地(宮本商産のレンガ造店舗の筋向い)に移転してきた。

勝は大正13年頃に、西2条南9丁目で元・河西支庁長の諏訪鹿三がやっていた牧場跡地を3戸分(16・18・20番地)購入し16番地に店舗や住宅を建て、18番地は貸し、20番地は来道した際に寄宿し世話になった池田町のカネヨ佐藤金物店の佐藤喜代丸に譲った。

この16番地に建てた坂本勝玉堂の建物は、小樽軟石造りの2階建で鳩の彫刻もあったモダンなものであった。

戦後に18番地にも増築をするが、西2条側の設えは16番地の勝玉堂の意匠を真似て一体化させたデザインであった。

父の圭司は昭和27(1952)年に北海道で2番目のダンスホール「坂本会館」を 開店するが、何度かの改装を終えた後に、店舗のファサード(建物正面の意匠)を、実際には2階建てのままなのに3階建ての様に見せるデザインに変更した。

つまり前面に見せかけの壁がある状態なのである。この壁の内側は巨大な空間の屋根裏であった。ここが我々子供たちの恰好の遊び場であった。

この屋根裏空間で鬼ごっこやら戦争ごっこをやって遊んだのである。

また、ダンスホールはちょっとした運動場であった。当時の小さい子供の身体感覚であるから広い体育館のように感じていたが、実際は現在の坂本ビルの6階大ホールの約75坪(250㎡)よりは狭くて、5階Bホールの約38坪(125㎡)よりは広かったのではないだろうかと思う。

ステージ上には生バンド用の楽器のピアノ・ドラムセット・エレキギターなどが置いてあり、いつも楽器をイタズラして弾いたり叩いたりしていたものだ。もしも、昭和42年の火事で全焼していなければ、私はバンドを組んでグループサウンズの一員になっていたかもしれない・・・。

屋根裏には物干し台へと繋がる通路があって、この物干しから簡単に屋根の上に上がれたのである。この屋根の上も格好の遊び場であった。

また、隣の片山洋服店との壁を手と足を突っ張り棒にしながら登っていくことが出来た。私は小学6年生の卒業時の身長が133㎝でクラスで一番小さかったから、小学低学年の頃ならもっと小さいわけだが、その身体で手足で登っていけたのであるから、壁と壁との間は、かなり狭かったのであろうなぁ〜。

とにかく色々なルートで屋根の上に上がっては鬼ごっこなどをして遊んだのであった。

この屋根遊びの最大の難関は2軒隣のSさんのお母さんであった。S家は我が家とは違って、とても上品な家であった。

屋根の上に上がっている私と目と目が合うと、Sさんは電話の受話器を持って我が家に「お宅のお子さんが屋根に上っていて危ないですよ」と電話をしてくるのである。

そうすると母も子供に注意をしなければならないから、屋根から降ろされてしまうのである。(つづく)